僕がクソつまらない「写真」に惹かれている理由

僕がクソつまらない「写真」に惹かれている理由写真というのはつまらないものだと僕はよく思う、とてもつまらない表現分野だ、と。
アートとして一部では認識されているのにも関わらず、表現方法としては相対的に見て他の分野よりも見劣りしてしまう。

映画とはちがって、写真はいつも平面的で、時間性というものが存在しない。映画の中では役者に言葉をぺらぺらと喋らせたり、ストーリーの文脈に沿って観客になにかを直截的に伝えることはたやすい。映像に音楽や効果音をつけたり、あるいはカット割りのテンポで観客を飽きさせない工夫をすることもできる。しかしながら、すくなくともいまは写真は音すら持っていない、あるのは連続性のなかから切り取った、たったひとつの光景だけだ。

絵画とはちがって、丸っきり白いキャンバスに独創的に色を落としてゆくこともできない。写真ができるのはただただ目の前の現実を切り取るだけだ、結果的に映ったものがどのようにみえたとしても、それは作者そのものがゼロから造り上げたものではない。

音楽とはちがって、写真は娯楽として大衆に捉えられていない。音楽はしばしば芸術という分野以前に古来より人々の鬱蒼とした気持ちを晴らしたりと娯楽として多くの人間に親しまれてきた。多くの人にとってあらゆる感情や経験と結びつく傾向にある音楽ほどの地位を写真は確立できていないし、これからもできないだろうと感じている。

そもそも写真ほど特異な発展の仕方を遂げているものは珍しいと思う。写真の歴史は浅い。1827年だかに、フランスでジョゼフ・ニセフォール・ニエプスが写真を撮ることに成功して「写真」というものがこの世に誕生して以来、まだ200年も経っていない。おそらく誕生した当時としては革新的なものだったと思う。それまでは白のキャンバスにひとつひとつ細かく手を動かしながらようやく現実を模して記録ができていた、それとは対照的に写真は多少の作業を要するもののまさしくシャッターを切る一瞬で現実が映りこんでしまうのだ。一瞬で記録できてしまうのだ。

この200年の間に目が回ってしまうような技術の進歩があり、いまはみなが持ち歩いているスマートフォンで人差し指をほんのすこし動かして作業するだけで、200年前の被写体の判別も難しいような写真とは似ても似つかぬ、我々の目に映る現実とそう遠くないものが撮れるようになってしまった。いまから過去10年間だけを切り取ったとしても、ある程度の敷居の高さはまだあったと思われる10年前と比べて、いまはますます写真とは誰にでも普遍的に行えるものになっている感じがする。今はカメラを特別に買わなくても携帯電話であったり、いろいろななにかで写真が撮れてしまう。誰にでも、「記録」という目的においては充分すぎるほどの役割を果たせる写真を撮れるようになったのだ。

写真というのはおかしな表現の分野だ。ほんのすこしのセンスと呼んでいいのかすらわからないものを携えていれば、過去の写真家たちが残した偉業たちをまったく知ることがなくても周囲から「いい写真を撮るね」と褒められることだって多々あるだろう。こんなことは音楽も映画も絵画もあり得ないと思う。どんなアーティストたちも、それぞれが敬愛するアーティストがあって、作品があるはずなのだ。彼らはそうしてそれらを自分のなかで咀嚼することで彼自身のものを創作する。どんなアーティストも彼らが能動的に吸収してきた、学んできたものの蓄積の結果においてこそ創作する。

そもそも、写真を撮ることを創作と呼んでいいのかということに疑問を持つひともいるだろうと思う。先に述べた通り、写真はあくまで目の前にある現実をただシャッターで収めるだけなのだ。いつも我々が目で見ている現実を、額縁のなかにただいれるだけの作業。作業の内容としては、映画を創るよりも、音楽を創るよりも、絵画を創るよりも遥かにたやすい。

しかしながら、僕はその「写真」という表現の分野に惹かれている。つまらないと思いながらも、またそのつまらなさの中に面白さをも見出している。

僕はそれまでただそのつまらなさをそのままつまらないと断定して写真の力を卑下していたのだ。そのことに初めて痛感させられたのは、何気なく商業的にも大きく成功した偉大な写真家のひとり、リチャード・アヴェドンの”Photographs,1947-1977″の写真集のページを繰っていたときだった。

特にどの写真が、というわけではない、彼が1960年代にスタジオで撮った人々の屈託も無い笑顔の映る写真群に目を留めてから、どこからともなく僕の頭の中にそのスタジオの光景がありありと再現されはじめたのだ、まるで誰かが一時停止されていた映像に対してリモコンで「再生」を押したみたいに。僕の頭のなかでその写真は一人でに音を持ち、ダンスを始め、勝手にその場を踏み荒らしていった、すごくにおいのする瞬間でまるで頭を殴られたような感銘があった。

その光景に圧倒されたあとすぐ、またその「一時停止」されたままの写真に目を戻すと、僕はそこに底知れぬ恐怖を感じてしまう。写真のなかでこの被写体は、ひたすらに動きを止め、ひたすらに屈託のない不動の笑顔を、写真が撮られてから数十年にもわたって観客に対して投げかけ続けていたのだ。何ということだろう。

僕は確かにあの瞬間、みたのだ、きいたのだ、におったのだ。「そのとき、その場」の空気を。しかしそれはとっくの昔に、永遠にその瞬間は失われてしまっていたのだ。きっとその被写体は、写真が撮られたあともその人自身の連続性をただただまっとうしてきて、まっとうに老いてきたのだろう。写真のなかでその若さは永遠だ。だけれど同時に皮肉なことながらその写真は逆に永遠なものなぞ一つもないのだ、と物語っている、そんな恐ろしいほどの刹那性をも感じ取ってしまったのだった。

それらふたつの相反しているからこそ互いに強調しあう「写真の力」の前に、僕はもうどうすることもできなくなって、身体をひたすらに震わせて泣いてしまった。どうすることもできなかった。写真がこんなにも恐ろしいものだとは知らなかった。時間性の存在しない刹那だからこそ、逆にひしひしと「時間そのもの」を感じてしまう。音も動きもにおいもないからこそ、逆にひしひしと「空気そのもの」を感じてしまう。すごく土っぽい、という表現は我ながらある程度的を得ている気がしている。土っぽいのだ、どうしようもなく。本当に、どうしようもないほどに。

写真を視るのはきわめて能動性を要する。絵画ももちろんそうだけれど、仮に展覧会にいったとしてもべつにこの写真を何分間見なきゃいけない、なんてものはない。写真なんて見るだけなら数秒で充分だろう。けれど、時折僕はひとつの写真の前に1時間でも対峙してしまうこともあった。人によって感じ取るものもまったく違うだろう。まったくなにも感じないというひともいるのも頷ける。なぜなら写真は基本的に、つまらないものだからだ。

写真と向き合うとは、自分のなかとの対話なのだ。もちろんどの分野においても芸術を嗜むというのは結局はそういうことなのだろう。ただ、僕が思うに、写真はそれが最も要される。一枚の過去の写真の前には、まぎれもなく今現在を生きる自分自身がいて、いつでもその両者の距離感を確かめながら僕は写真を見つめる。たとえその写真が1/100秒で撮られた一瞬だったとしても。

そのなかで何を感じるか?撮影者はなにを撮りたかったのだろうか?こんなメディアとしての力が相対的に薄っぺらい写真で、なにを伝えようとしているのだろうか?時にはまったくわからない、ということもあるだろうと思う。それでいいのだ。きっと写真は思っている以上に内的な運動なのだ。

写真を撮るのもきわめて面白い。力を持った「作品」としてなにかを伝えようと撮るとき、僕らはいつも現実(日常)を再発見することができる。今の時代、敷居の低い、誰にでもできる表現の分野で、確かに他者と違いを出すのは難しい。同じ現実を用意して「いい写真」を撮れと不特定多数の人間に命ずればきっと同じような写真になるだろうと思う。けれど、力を持つ作品としての写真は「いい写真」とは違う。その方法こそに、きっと個性というものが出るのだと思う。僕は撮る側としてはまったくもってズブの素人だけれど、それだけは思う。きっと写真は思っている以上にきっと内的な運動なのだ。

それからもうひとつ写真について面白いと思うのが、写真は他の分野以上に「虚構」をつくり出すのがたやすい。現実を撮っているのにも関わらず、である。ここでは詳しい説明は避けるけれど、たった1枚の薄っぺらい紙の上でこれほどの虚構を構築できるなんて、いやむしろたった1枚の薄っぺらい紙の上だからこそなのか、と納得したことがあった。そこにも内的な運動が要される。

これまた有名な写真家で申し訳ないけれど、アニー・リーボヴィッツは「あなたにとって写真を撮るとはなにか」と訊かれたとき、こう答えていた。「現実を常にレンズを通して覗き込むことだ」、と。

残念ながら僕は写真を撮るのに必要とされるカメラそのものなんかにはほとんど興味が湧かない。ただただ僕は、そのクソつまらない「写真」にどうしようもないくらいいまは惹かれているんだ。


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