ほんとうは、終わってほしい(押井守『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』)

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タクシードライバーは、突如として関西弁で語り始める。

「なまじ客観的な時間やら空間やら考えるさかい、ややこしいことになるんちゃいまっかあ?時間なんちゅうもんは、あんた、人間の自分の意識の産物や思うたらええのや。世界中に人間が一人もおらなんだら、時計やカレンダーに何の意味があるっちゅうねん。過去から未来へきちんと行儀よお流れとる時間なんて、初めからないのんちゃいまっかいなあ、お客さん。人間それ自体がええ加減なもんなんやから、時間がええ加減なんも当たり前や。きっちりしとったらそれこそ異常でっせ。確かなんは、こうして流れとる現在だけ。そう思たらええのんちゃいまっかあ」

傑作と名高い『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で、押井守はわれわれに「時間」とは何かと問いかける。高校の文化祭の前日、そんな青春を象徴するかのような日々が終わらなければいいのにという思いはきっと多くのひとが抱くだろう。それが、永遠に繰り返されるなら——。

われわれ人類は便宜上時計という装置をつくりだし、いまを生きるひとびとはみな時計の針の刻む音を気にしながら生きている。それはあくまで人類が経験的・後天的に会得したものであって、ア・プリオリなものではない。カントは『純粋理性批判』において、人間の感性が経験に依らずア・プリオリに認識できるものとして、「空間」と「時間」の2つを挙げている。ここで言われる「時間」というのは一般的な(「時計」が象徴するような)時間性よりも狭義で、「いま、ここ」で一定に流れている時間の同時性/不可逆性を指す。映画という虚構のなかで時系列がシャッフルされようが、たとえそれが夢であったとしても、「いま、ここ」の時間性という概念は揺るがない。すくなくとも一般的な時間法則に身を委ねている鑑賞者としての我々の時間性は揺るぎようがない。むしろ、映画のなかで「時計」が止まるとき(時制が破壊されるとき)、我々の揺るぎのない時間性というものが対照的に目前に立ち現れてくる。

『ビューティフル・ドリーマー』の冒頭で映る校舎の時計台からは、時計針は取り外されている一方で、鐘の音が辺りに響き渡る。その鐘の音の響きは、従来のそれとは異なるあらたな時間への移行を告げる音のようにもきこえるかもしれない。ウィリアム・フォークナーは「小さな歯車によって刻まれているうちは時は死んでいる。時計が止まったとき、はじめて時間は息を吹き返す」と云った。ここではまさに「時計が止まって」いるのであるが、そもそも時間が息を吹き返すとはどういうことだろう。この映画では、ラムの純粋な願望(「あたるや他の仲間たちと一緒にずっとずっと楽しい時間を送っていたい」)が夢となって具現化された形で時間がループしている。いわば一般的時間性、小さな歯車が刻む時からはまったく切り離された時間性を獲得している状況だといっていい。評論家の大森望は本作品のそのモチーフを「ユートピア」と評したように、それはたしかに主観的な「たのしい」空間が保たれる理想郷である。客観的な制約を課してくる時間性・空間性が徹底的に排除され、「いま、ここ」のたのしい時間が確固たるものとして実存する。先に述べた揺るぎのない「いま、ここ」が確立されたとき、「時間が息を吹き返す」のではないだろうか。

しかし、映画自体に終わりがあるように、そのたのしい時間も最終的には終焉を迎える。ラムの夢は、あたるたちによって終止符を打たれる。僕はここであえて問う。その世界が「ユートピア」であるならば、なぜ彼らは脱却を試みたのだろうか、と。あの世界はあくまでラムの願望によってつくられた夢なわけであって、あたるたちにとっては必ずしもユートピアではなかったからと答えるのは簡単であろう。だが押井守はほんとうは「永遠にループする似非ユートピアからの脱却」が描きたかったのではないかと僕は推察する。ユートピアと永遠性というものは両立しない、ユートピアは原理的に永遠には続かない。当たり前のことかもしれないが、祭りのあとのさびしさが存在してこそすれ、祭りは成立するのである。退屈な現実があってこそすれ、理想郷が成立するのである。観客が「繰り返される文化祭前日」にノスタルジックな楽しさを見出すのは、それが過去に終わったものであるからであって、現在進行形で文化祭前日が続いているなんてことになってしまったら、この映画をメタ的に鑑賞することなんて不可能にちがいない。

「終わってほしくない」という願望の裏側には、同時に「(そこそこのところで)終わってほしい」という相反する願望が沈潜している。宮台真司の言う「終わりなき日常」が開始を告げた90年代以降に生きていた日本人は幸せとは言えなかっただろう。『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレス・エイト」で繰り返される15,000回にもわたる夏休みの記憶を引き継ぐ長門の顔はまさしく憂鬱を物語っている。終わりがみえないということは、恐怖である。「いつしか人は死ぬ」ということよりも、「人は死なずに永遠に生き続ける」ことのほうが僕は恐怖する。それは意識的/無意識的であれ、だれもが持っている思想ではないか。「無限」よりも「有限」のほうがうつくしいのだ。

「小さな歯車によって我々の時間を支配されたくない」と願うのと同様に「支配されたい」とも願っているし、その支配から解放されたところで、ひとはきっと幸せになれない。「いま、ここ」の現在と同様に、「過去から未来に流れる時間への想定」がなければ、人類の文明は成り立っていないとすら言い切れると思う。限りある未来を仮定しなければ、生を謳歌することすらできないだろう。小さな歯車によって刻まれる”死んだ時”がなければ、われわれは生きることすら真っ当にできないというのは、何とも皮肉なことである。『ビューティフル・ドリーマー』で幕切れののちに映る校舎では、時計が時を刻んでいる。


うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー(1984)
監督:押井守
メディア:映画 Anime
上映時間:98分
製作国:日本
公開情報:劇場公開(東宝)
初公開年月:1984/02/11
ジャンル:コメディ/ファンタジー


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