参議院選挙と『災害ユートピア』の終焉

参議院選挙と『災害ユートピア』の終焉

参院選が終わった。

投開票日の翌日に20歳を迎えた僕もどうやら有権者だったらしく(4月1日が早生まれなのと同じ論理らしい)、すなわち今回の参院選がはじめて目に見える形での政治参加だった。年金についての案内の手紙と同様に家まで届いた「選挙のお知らせ」はがき。ほんとうに僕は有権者になってしまったのだと、一種の昂りさえも憶えた。

しかしながら、かつてギ・ドゥボールが「スペクタクル社会」という言葉を唱えたように、政治自体も僕にとってはスペクタクル化しているような感覚がある。僕はその世界に干渉することができず、字義通り映画の観客のように趨勢をただ眺めることしかできないような、そんな虚しさ。それは有権者ではなかった前回の衆院選のときも似たような印象があったのだけれども、今回有権者として一票を投じ、その行く末を見守ったことでまたその実感はより強固なものとなる。

そもそも、「政治」なんてものはいま現在僕なぞの一介の学生にとって何も肉薄してこない。べつに政治に興味がないわけじゃない。新聞だって毎日読んでいるし、テレビのニュースだって観る。能動的ではないかもしれないけれど、ある程度のコストを払って政治に関心は持とうとしている。若者の政治離れを嘆くオッサンたちからの揶揄を免れる程度には注意を払ってるといえるんじゃないかしらん。

個々の政策に関して問われれば、どこかの受け売りでもいいから賛成/反対なり、なにか一端の意見を言うことはできるかもしれない。しかし、選挙のように政党単位で判断をしっかりとくだせるようになるまでには、僕にはあまりにも道のりが長過ぎる。特に争点がこれほどまでに多彩で、野党が乱立している現状において。

やはり政治というのは学生にとって関係がなさすぎるのだ。いや、あるんだろう。それでも仮にどれだけ僕らが将来負担を背負わされることになろうが、1億数千万も年寄りに比べて損をしようが、そんな未来のことを声高に既得権益者に叫ばれたってあまりリアリティがない。実際にすくなくとも僕はいま大学にも通えていて、食いっ逸れていない、そこそこ幸せな暮らしをしている。その「そこそこ幸せな暮らし」が社会によって侵犯されない限りは、わりとどうだっていいし、ただでさえいまの時期は試験勉強などでとても忙しいのに、時間を割いてどの政党に投票すべくか悩んで、選挙区で出ている各党の候補者をきちんと見極めて、というのはかなり厳しい。

それでも、それでも。自分なりに考えて、投票したんだけど。だれかが言っていたように投票所の鉛筆の書き味のよさはかつて味わったことないくらいのもので、それだけでもイベント感が演出されていてよかった、それはあるんだけど。メディアが連日世論調査をして報じていたように、まるで予定調和的に自民党が圧勝、という結果は、わかってはいたけれどもやはりあまり心地のよいものではなかった。僕は観客でしかないのだ。

そして、去年の衆院選同様、選挙に対して盛り上がっていたのは、”意識が高い”僕の周囲だけにすぎなかった、ということがはっきりした。フェイスブックの僕のフレンドの多くは未成年の非有権者でさえもが投票に行こう、行ってくださいと声をかけていたし、きっと僕の友人の有権者はだいたい投票に行ったのだと思う。すくなくとも、ふだんから仲良くしている人間で「あいつは投票にいっていないだろう」という顔は思い当たらないんだよねえ。ほかにも僕が観ていた限り、SNS上ではあれだけすずかんが持て囃されていたのに、けっきょく落選。なぜか実感では反発がつよかった山本太郎が当選。まあ、僕は東京都民ではないからそちらには投票していないのだけれど。要するに、当たり前の話なのだけれど、ツイッターでフォローしているひとびと、フェイスブックでフレンドのひとびとはあくまで僕に似た偏った一房でしかない。それは「民意」だとか「全体」などではないんだよね。全体でみたらおおくの若者は実際のところべつにコストを払ってまで投票に行こうとしてないし、行ったところで政治参画している実感はそんなに得られないだろう。

で、冒頭に引用した東浩紀のツイート。ああ、なんだかこれだなあと思った。

授業で取り上げられていた、3.11の震災後に知識人たちがこぞって読んだというレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』をさいきん読んだ。大災害が襲ったとき、ひとびとが従来の秩序のもと利己的な態度を取る日常は消滅し、利他的・地縁的・相互扶助的な市民社会が「ユートピア」として出現する・・・。3.11を経たあとの日本に生きる僕にとって、その彼女の指摘はまるでかの出来事を予見していたかのような身近さがあって。

僕がポストモダンを生きてきたなかで、震災直後はかつて経験したことがないほどの大きな一体感があったように思う。「絆」という言葉が連日メディアで踊る、家族的な地縁的コミュニティが再評価される動きへ、「政治離れ」が進んでいた中で多くが自身の置かれている環境をつくりだした政治に疑問符を投げかけるようになる。まさしくこれから政治は変わるかもしれない、日本は変わるかもしれない、といった一種の祭りに似た活気があった。震災が、日本社会が囚われていた終わりのない閉塞感に風穴を開ける契機になったのでは、という期待さえ抱いた。これは、この時代を生きた僕の曲がりなりにも素直な実感だった。

しかし、いま判ったことは、あくまで3.11後に出現した世界は、ソルニットの指摘する一時的なユートピアでしかなかった、ということだ。参院選では自民党が圧勝しねじれを解消、積極的に原発再稼働を政府は働きかけている。東浩紀がいうように、政治は変わらないし、日本も変わらない。相も変わらず世界はスペクタクル化していて、僕は足掻こうともけっきょくはそれをただただ眺めるしかないみたいだ。

ユートピアと永遠性というものは両立しない、ユートピアは原理的に永遠には続かない。当たり前のことかもしれないが、祭りのあとのさびしさが存在してこそすれ、祭りは成立するのである。退屈な現実があってこそすれ、理想郷が成立するのである。

押井守の『ビューティフルドリーマー』を観て、こんな感想を書いていた。皮肉にも、僕らはどうやら退屈な現実を送っていたからこそあの一体感を得られたのだろう。もしあの一体感をユートピア的にふたたび得ようとするならば、また退屈な現実を送り続けるしかない。祭りはもう終わったし、次にいつくるかはわからない。そして、その次の祭りも、きっとすぐに終わってしまうんだろう。

やはりこれからも僕らが大きな社会の枠組みのなかで幸福を見出すのはきっとむずかしい。個人的な暮らしのなかで、個人的に生きてゆくなかで、ちいさな幸福を見つけるしかない。この識者たちの多くが語っていることに、僕自身の実感としてようやく辿り着いた(というより、それに対して持ち始めた疑問符がついには消滅してしまった)。僕にとってのちいさな幸福とはなんだろう。古市が『絶望の国の幸福な若者たち』で挙げていたような「友達と1泊2日で千葉あたりにBBQをしにいく」ってことになるのか。20歳になって、20歳になったからこそ、もうすこし自分の幸福について考えてみてもいいかもしれない。形式的には「大人」として、もうだれも自分の幸福にまで責任をとってくれる他者はいなくなってしまったのだから。


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