毎年のことながら甲子園が最高におもしろい

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僕にとっての夏の象徴ともいうべくは、田舎へと帰省して、絶え間ない蝉の鳴き声をききながら畳の上の扇風機の前に寝転がり、おもむろにテレビをつけて甲子園をみているこの瞬間だ(断定)。数日間だけれども毎年夏には親戚の住まう岡山の田舎へと帰省していて、その記憶は物心ついたときからずっと続く。どんなに忙しくてもここに帰るこの数日間だけは極力都合したい。飯はうまいし、空気は澄んでいるし、星はきれいである。20歳になったいまも、こうして同じように呑気に甲子園中継をみていられること、たぶんこれは僕にとっての幸福である。

しかしなぜああも夏の甲子園はおもしろいのだろう。

僕は基本的にスポーツ観戦はきらいではない程度にはすきだ。野球はなかでもけっこうすきだ。小学校の頃はいっぱしの阪神タイガースのファンで、毎晩欠かさずテレビに齧りついて野球中継を観ていた、新聞の切り抜きだって毎日していた。ちょうど僕の野球熱がピークだった2004年と2006年に阪神が優勝したときのあの歓びはいまでも憶えている。その影響もあってか中学時代は野球部に所属し、どうしようもないくらい下手くそだったけれども野球というスポーツへの親しみはそれなりにあった。高校にあがってからは、プロ野球にも興味がなくなり、試合なんてまったく観なくなったし、もはや僕が見ていたころに活躍していた選手たちはけっこうな数が引退しているらしい(それでも最近は野球熱が再燃しているのか、試合の翌日に届く新聞のスポーツ欄をひらいて、阪神が勝っていたらばささやかな幸福を感じる程度は関心がある。阪神が優勝したらたぶんうれしい。それでもそれは外部にはまったく発露されないきわめて個人的な種類のものだとは思うけれども)(あと、午前中に予定がない日曜日、二度寝三度寝と経て日が高くまで昇ってからようやくもぞもぞとベッドから這い出しテレビをつけたらたまたまBSでやっているメジャーリーグの中継を寝ぼけ眼でぼんやりと眺める行為、にも個人的な幸福を感じます。大抵は最後まで観ないし、結果にもまったく興味はないけれど、「休日感」が演出されてなんだかいい)。

さて、話がすこし逸れかけているけれども、言いたいことは夏の甲子園は格別におもしろい、ということだけです。なんでなのかしらん。というわけで、これからすっごく月並みなことを言います。言いたいので言わせてください。

いやね、ドラマがあるんですよ。もうドラマ。完全にドラマ。むしろドラマしかない。

なんなんだあの汗のきらめきは。炎天下に晒されながら、一様な坊主頭をした高校球児たちがみな試合の進行に一喜一憂している。青春の総決算が甲子園にすべて集っている。改めていうけどあの場にいるのはみんな都道府県の代表で。その制度がまたいい。何十、何百校のなかでついには甲子園へのたったひとつの切符を手にした。高校球児たちはみなあの場所に憧れて、これまでやたらと厳しい野球部の戒律を遵守しながら、実るのかもわからないけれど盲目的にそれを信じて(あるいはどこかで諦観の念を持ちつつも)、青春を捧げてる。帰宅部のやつらとか、適当に部活をやっている呑気な奴を横目に、そんな世界があるのも諒解しながら、場合によっては羨望しながら、けれど俺は野球だ!って決めてる。なにかがそうさせてる、あるいはそれは強迫観念のようなものなのかもしれない。とりわけ甲子園にはきっと出場できないような「まあ、実際おれらは無理だよね」っていう弱小校のやつらがひたむきに野球に頑張っている部活だってたくさんあるんだろう、そんな姿とか想像したら涙チョチョぎれてまうやんか。そして、何校もの敵を破って、何人何百もの高校球児に涙を呑ませて、彼らの屍を乗り越えてこそようやくあの土を踏むことができた彼ら。甲子園常連の強豪校は、先輩たちの晴れ姿をずっとみて育ってきて、俺もあの高校の野球部にはいってあの場に立つんだ、って信じてやってきて、その伝統をこわしてはいけないというプレッシャーがあったりする。あるいはかつて甲子園に出たことのない高校の野球部員たちは「俺らの代こそは」っていう決意に燃えていたりする。強豪校が予想されていた通り勝ち抜くところもあれば、無名校が強豪校を破ったりもしてしまう。どちらにせよ、切符はひとつしかない。そこまでの試合にも、僕らがテレビで観ることはできないけれども数えきれないほどのドラマがあったんだろうなあと容易に想像できる。ついにはその切符を手にした高校は、地元ではもうものすっごい持て囃されて、たくさんの見知った顔の期待を一身に受けてやってきている、甲子園まではるばる。甲子園は甲子園だからいいんだよね。京セラドームとか東京ドームとかでやってたら興ざめだよ。あの炎天下のもと、浜風の吹くあの夏の舞台だからこそいい。春の選抜甲子園ではだめだ。夏の甲子園でなきゃ。その場には観客が老若男女問わず大勢詰めかける。同じ学校に通う学生たち、家族みんな。きっと選手たちが付き合っているクラスメイトの女の子なんかもわざわざ甲子園へとやってきているにちがいない。テレビの前でも彼の友人や知人の多くが、誇らしげにしつつもテレビをかじるように見入っているにちがいない。グラウンドで走り回る彼らはそんな友人知人になんて言ってきたんだろう。坊主頭が照れくさそうにオレ、甲子園出るから。観てくれなよな。キャー!みたいな(僕は腐女子か)。僕自身も一度甲子園で高校野球の試合を観戦したことがあるけど、もうとにかく鬼のように暑いんですね。その熱気がテレビの向こうにいてもばしばしと伝わってくる。炎天下の中、汗をだらだら流しながら正念場を乗り切ろうと頑張る球児たち。

高校球児ってしかし、いいんだよね。僕がつらつらと語ってきた妄想が自然と適用されてしまうだろうというようなキャッチーなイメージが前提としてすでにある。坊主頭っていうアイコンだったり、「高校の野球部」っていう世間一般のイメージは、すごく清廉だ。確かにダルビッシュ有の長髪は格好いいが、プロ野球みたいに俗っぽくなりすぎると高校球児に対するそれのような共感とか素直な応援に若干ハードルが上がる。黒人ムキムキのメジャーからやってきた外国人選手がドコスコホームラン打つ、みたいなのはもともと自分の応援しているチームならいいけども、ぜんぜん知らないチームに突然そういうの現れたらちょっと…って身を引いてしまう。あとは煙草も酒もやっていないだろうというのも高ポイント。はあ今日の練習つかれたなあとかいってモクモクやって、たまに風俗とかいっちゃったりしてる大学生球児は何だか反骨心を抱いてしまうよ(知らないけど)。つまり、高校野球って一人一人の選手の顔観てたらどのチームでもぜんぶ応援できちゃうわけ。地元をどちらかといえば応援する、っていうのは少なからずあると思うけど、べつに地元のチームを打ち倒した相手を忌み嫌うみたいなこともたぶんない。純粋に、そのあと勝ち進んでほしいって思える。

そして何よりやっぱり野球っていうスポーツの性格がそういう清廉な高校生たちにぴったり合致していると思う。どのスポーツもそれぞれドラマが生まれるとは思うんだけど、やっぱり野球っておもしろいんだ。サッカーだったら後半45分ロスタイムで3−0で負けてたら「やっぱり…」って観客もどうしても諦めてしまう節あるじゃないですか。物理的に不可能なんだもの。でも野球は9回裏2アウト2ストライクからでも逆転サヨナラ勝ちする可能性は十分ある。経験としてそういうのをこれまで何度も目の当たりにしてきた。なぜだか甲子園はそういうのがプロ野球にくらべても多い。どんなにすぐれている選手も、あの場に立ってプレーして、観たこともないくらい大勢の観客の視線を浴びて、緊張してしまって想定外のことが起こる、わかるわかる。顔みてたらわかる。「甲子園はなにが起こるか最後までわからない」。だから最後まで見届けてやりたい。試合結果が気になる。

これまで安定していて表情ひとつ変えない孤高の1番のエースが9回裏で突然崩れて逆転負け、ピッチに立ちすくむ姿も、満塁一打逆転のチャンスに代打起用され、そいつは初めての試合出場、もう後もない、ここで打たなきゃ俺の野球生活はなんだったんだ!というような気合い十分のバッターが内野ゴロ、必死に一塁まで走って飛び込むんだけどあえなくアウト、試合終了、しばらく一塁で俯せになっていて、ベンチから仲間に抱きかかえられてもう大泣きしながら試合終了をつげるサイレンの音のなかで相手とピッチと観客に礼をする姿とか、もう観ていて悲しくなってくる。たとえどっちに転んだとしても、よくがんばったな、最高なもの魅せてくれたよありがとう、って声をかけにいってやりたい。僕までもらい泣きしそうになってくるじゃないか。そういう個々の「顔」っていうのが野球はすごくよく見える。基本的にはピッチャーとバッターの一対一勝負なわけで、ピッチャーが日照りの下ボールを投じ続けている顔も、9人全員が順番にバッターボックスに立っている顔も、ぜんぶテレビは映してくれる。なかには顔が整っているやつもそうでないやつもいる、ちょっとファニーな顔のやつもいる(失礼)。プロ野球までいってしまうとすこしみんな格好よくなったり、オッサンがいたりもしてしまうけれども、高校球児はみんな高校生なんだもんね第一に。純粋に野球というスポーツの持つ厳粛なルールのもと、それにかかわってこない要素はすべて排除されている、それをあの場に結集させて戦わせるって素敵だ、最高にエンターテイメントだ。すべてのスポーツに言えると思うけれど、本当、それを再認識してからはなんてスポーツとは最高に健全なんだとひとりでに感動していた。その世界ではルールが決まっている。そのルールに則った上で正当なやり方で勝利を目指す。高校野球は地元大会からすべてトーナメント制なわけで、その勝利をし続けたチームだけが、一度も敗北を喫することなしに頂点の座に辿り着くのだ。一度も負けないまま夏を終えられるのは、全国の何百何千ものチームのうち、たった一校だけ。

高校三年生。夏の甲子園が終わっても、もちろんコーチなどをして一生かけて野球と付き合っていくという人間もいるだろうし、なかには大学でも真剣に野球を続ける、もし才能が認められたらプロにとかまだ夢を持ち続けている奴だっていると思う。けど、この甲子園が終わったら、この夏が終わったら、物心ついたころからずっと続けていた人生の中心を占めていたとも言える野球を、甲子園を機に辞めようと決意している子もいるわけでしょ。なんなんだよそれ、もう反則ではありませんか。

甲子園に出ている人間は、たとえベンチで出場機会がないような生徒も、すくなくとも背番号をもらえているやつはみんな、きっと幼い頃から野球をやっていて、しかもかなり秀でている部類に属するのだと思う。甲子園出場校で背番号をもらった、ってもうそれは赤飯を連日炊いてしまうくらいすごいこと。ひたすらずっと素振りをしてきて、筋トレをして、朝早くから起きて練習にでかけ、休日なぞなく、泥で汚れたユニフォームを着てへとへとに疲れて帰ってくる。そんな生活がもしかしたら小学生のときからずっと続いていたのかもしれない。野球しかない。野球しかやってこなかった。けれどそんな人間でも、もちろん全員がプロになれるわけではなく、中学校の野球部でいちばんうまかったとしても、プロになれるやつはごく一握りだ。野球で飯を食い続けられるやつもまた同様に一握りだ。それには俺は無理だって薄々気付いている、だから彼らの幼少期から10代を捧げてきた野球とはこの夏を最後にさっぱり縁を切ってべつの道を歩んでいくと決意して、あの土を踏んでいる球児たちはたぶんけっこういるに違いない。なんと表現すればいいんだろう、それはあまりに物哀しくもあるけれど、あまりに健全であって、あまりに愛せてしまう。『桐島、部活やめるってよ』の映画で夏が終わっても引退しない部長は、それに該当する。

たぶんそれが僕自身の実感として湧き始めたのは、テレビのなかの彼らがみな年下であるという事実に気付いてからである。言うなれば、彼らはみな僕が成し得なかった青春を、もう二度と得ることのできない過ぎ去ってしまった青春を鮮やかに獲得してしまっている。僕はなぜ高校時代に野球をやらずあの場を目指さなかったのだろう、とさえ思う。確かにどうしようもないくらい下手くそだった野球と縁を切って、自分のやりたいことをやろうとした高校時代は、いささか享楽的ではあったものの、愉しかったとは言えると思う。ただ、高校野球にそれを捧げていたらどうだろう、きっと途中で嫌気が差してしまっていただろう、けれども、それをやり遂げていたときの感慨はどうだろう。野球が下手くそだったのは、たしかに身体的な部分も大きいけれど、真面目に練習をしなかったというのもある。甲子園に出ている彼らがやってきたように、真面目に素振りをして、真面目に練習をして、真面目に野球を考える。そんな生活は、もうたぶんできないに違いない。似たように何かひとつに打ち込むということはできるのだろう、けれど、彼らのような清廉で一直線な汗はもう流すことができない。

そうした「後悔」にまでは達しないけれど、それに近い感覚を持つもっと漠然たるものを、僕はテレビの中の彼らに重ね合わせて、甲子園を観るようになった。それが毎年夏に追体験できる装置として、夏の高校野球選手権大会は機能する。だからこそ暑い夏の日に、テレビで甲子園を観ている瞬間は、僕にとっての夏の象徴なのだ。僕自身が獲得できなかった夏を、彼らにとっての夏のなかに組み込んで、どうにかこの夏をやり過ごしている。ドラマは所詮ドラマである。毎夏消費されて、それは記憶のどこかに残っているかもしれないが、また匿名性を帯びた形で新しいドラマが次の夏に去年のそれを刷新する。

ということを書いていたら、いつの間にか甲子園なぞとっくに終わってしまっていた。今年の優勝校は前橋育英高校。たしかに今年の甲子園は例年以上に素晴らしかったような気もする。けれど、残念ながら選手の名前はひとりも記憶に残っていない(何人かスター選手はいたような気がするけど、スター選手以外の名前なんてもってのほかだろう)。もう僕の今年の夏は終わった、彼らの夏も終わっている。そう消費されて、また次の新しい夏がくるのを待っている。今年もたくさん妄想できたなあ。いやはや。次もたのしみです。

(終わりがアレですが、甲子園は最高におもしろいということを言いたいだけです。最高におもしろかったですね!)


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