目覚めながらにして産み出された夢たちを僕らは見続けている

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ひとは夢をみることができてよかった、と、改めて思う。

僕はいつもはあまり夢をみない(というのは適切ではないのかしらね。だれしもが必ず夢をみているらしいですし。正確にいうならば、なんの夢をみていたか起きたころには憶えていない)。しかしながら、フランスへと移住してから来てから、なぜかよく夢をみるようになった。とりわけ最初のころは「僕のフランス滞在中に何らかの事態が発生し緊急帰国をするが、自宅で母の手料理を食べてすぐにまたフランスへと戻る」というわかりやすすぎる夢をよくみていた。

多くの小さな哲学者たちは「夢とは何なのか」とこれまで問うてきたとおもう。それは僕にとってはどうでもよくて(よくなって)、まあたぶん深層心理がなんたらなんだろう、ということで曖昧に決着をつけた。そしてこう言う、夢がなんだったとしても、それはすばらしい体験である、と。

ロマン・ポランスキーの『反撥』(英,1965)を観たときにとくに夢について考えた。『反撥』についてはこの記事ですこし書いたんだけど、この作品は「夢」という存在がなければ成立していなかっただろう、と言い切れると思う。神経質なカトリーヌ・ドヌーヴ扮するキャロルの遭遇する断片的なシーンのかけら。彼女が「男に襲われる夢」を枕元で観たことがきっかけで、彼女は精神的に圧迫されてゆき、徐々にひとつひとつのシーンが、観客であるわれわれも夢か現か判別できなくなってくるのだ。

もし、もし夢をみることができなかったとしたら。われわれの世界はどれほど退屈だっただろうか。多くの芸術作品たちは存在しなかった、ゆえにそれを享受する昂奮すらも存在しなかった。毎度憶えているかどうかにかかわらず、日々僕らは枕元で夢をみて、「あちらの世界」に足を踏み入れている。現実世界と平行して、僕らは夢のなかでちがったなにかを体験し、ちがったなにかを感じている。

その「夢」の存在がどれほど創作に可能性を与えただろう、どれほど深みを持たせただろう。どれほど「あちらの世界」の表現を容易にしただろうか。 われわれが夢をみているからこそ、「あちらの世界」を描いたファンタジーを取り扱った芸術を受け入れることができているのではないか、とすら僕は思う。夢の存在が前提としてすべての人類に共有されているからこそ、ファンタジーはその可能性を膨らませることができるのだ。考え始めたらキリがないくらいに僕は(毎晩みなかったとしても)夢の存在を不可欠なものと感じている。

最近数年前に読んだ村上春樹『スプートニクの恋人』をフランス語で読み直した。”Les Amants du Spoutnik”。ストーリー自体はほとんど忘れてしまっていたけれど、彼の著作のなかでは『海辺のカフカ』に次いで好きな本だったとだけ記憶していた。おもむろに本屋で手に取り、そして読み始めたのだけれど、翻訳がよかったのかもしれない、「村上春樹が書いた話」だと判った上で読み進めると、ちがう言語で読んでいても不思議と彼の文体、リズムを感じ取ることができて、あまり難なく読み切れた。彼の本でなかったとしたらば、言語の問題も邪魔をしてここまでするりと読めなかったと思う。

この本もまた彼自身の創作のテーマに漏れず、「こちらの世界」と「あちらの世界」を扱った話である。ミウを追って「あちらの世界」に入り来んで失踪したすみれは、日本語版が手元にないので引用はできないのだけれど、失踪直前にこういう旨のことを書いていた。「どうすればあちらの世界にゆけるのか?それは簡単だ、夢を見続ければよいのだ!」

Le Magazine Littéraireという雑誌がフランスにある。名前の通り、文学全般についての雑誌で、1966年から毎月刊行されているようだ。古本屋でたまたま見つけた2003年6月・421号に村上春樹のインタビューが載っていた。2003年というと、前年に日本では『海辺のカフカ』が発刊され、フランスでは丁度『スプートニクの恋人』が発刊された年である。

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このインタビューの日本語訳も含まれた村上春樹のインタビュー集も出版されているらしいが、たいへん恐縮ながらも、拙訳引用。

人がひとつの家だと例えてみる。われわれは1階ではふだんの生活を送る。料理をし、食べ、家族とテレビを観る。2階には自分の部屋があって、本を読んだり眠ったりする。そして地下。いちばん奥まった場所に位置し、物置としてつかったりする。ただ同様に、この地下には隠された空間もある。その空間に入り込むのは難しい。なぜならまず見つけるのが容易ではない扉を介して入らなければいけないからだ。(中略)われわれはそこに何があるのか知らない、形や大きささえもわからない。その空間に入り込めたとき、恐怖を感じることもあるが、また同じくして気持ちよさを感じることもある。それはまるで夢のようである。(中略)ぼくが本を書くときは、ぼくはこの暗くて神秘な空間にいて、たくさんの不可解なエレメントを視る。ひとは象徴的、抽象的すぎるとときにそれらを揶揄するが、ぼくにとっては、この空間ではそれはとても自然なことなのだ。小説を書く、それは目覚めながらにして夢をみているような体験なのだ。

“Écrire, c’est comme rêver éveillé(書くこと、それは目覚めながらにして夢を観ているようなことだ)”と題されたこのインタビューを読んで、僕は作家という職業に羨望を感じずにはいられなかった。彼が小説を書くときはいつも、彼自身も結末がわからないままに、主人公とともに成長してゆきながら書くという。まるで夢をみるように、彼は小説を産み出し、また同時に体験しているのだ。

そして彼の夢を、芸術家たちの夢を僕らは追体験する。夢が世界に可能性を、夢を与えているのだ。だからこそ僕は、どういう仕組みなのかはわからない、わからなくてもひとは夢をみることができて本当によかった、と感じざるをえないのだ。これからも自分自身の夢を、そして他者の夢たちを見続けたい。


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