『アデル、ブルーは熱い色』— アデルの人生が、いつの間にか僕のそれにすこし重なる

『アデル、ブルーは熱い色』— アデルの人生が、いつの間にか僕のそれにすこし重なるla vie d'adele

今年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを獲得したアブデラティフ・ケシシュ監督『アデル、ブルーは熱い色』(原題 : La Vie d’Adele, chapitres 1 & 2)を観た。やはり世界最高の映画祭カンヌで最高賞のパルム・ドールを獲得したというだけあって、本場フランスではけっこうなひとが観に行っている印象がある。もちろんヒットしているハリウッド映画に比べたらすこしは劣るのだろうけど、それに負けないくらい人気な気がするし、すくなくとも僕の周囲のフランス人たちにこの話を振ると大抵はわりといい返事が返ってくる。日本だとこういうカルチャーないよねえ。アカデミー賞を獲った作品はテレビとかでやっているから何となく観に行くけれども、カンヌ映画祭なんかは「フーン」程度のリアクションな肌感覚。いったいどの程度のひとびとが去年のカンヌパルムドールのミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』を観たでしょうか(そして僕も観てない)。まあというわけで、せっかくなので感想がてら少々この映画について書こうかと思います。


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映画館を出て、写真でも撮っておこうとシャッターを切ったら一緒に観に行った子が飛び込んできた。なかなか躍動感に満ちてますね。さておき、さっきも書いたけどハリウッドなどのビッグバジェット映画を除くと、劇場にここまで人が居たのは初めてかもしれないってくらいに人が溢れていた(と思ったけど、この前上映されてたウディ・アレンの新作『ブルー・ジャスミン』はもっとひとが入ってたのを思い出す)。さまざまなメディアがアデルについて触れていて、今月のカイエ・デュ・シネマでは特集もされている。盛り上がっています。とりあえずまず、Allocinéという映画データベースサイトに掲載されていたストーリーラインを拙訳します。

15歳のアデルは、疑問を抱いたことがなかった。女の子は、男の子と付き合う、ということに。しかし彼女の人生は、青髪のエマと出会った日から様変わりすることになる。エマは彼女に欲望を発見させ、彼女のなかの「女」と「大人」を顕現させる。他者のまなざしに向き合いながら、アデルは成長し、彼女自身を捜し始め、見失い、そして見つけ出す…。

しかし、和訳ってほんとうに難しい。フランス語読んで理解するのよりも遥かに難しいし時間かかる。韓国語などの一部言語を除けば英語でもなんでも、日本語と比較すると文章や言葉の構造自体がちがいすぎるので大意で訳すことは簡単でも、適切な訳を見つけるとなると。たとえばこの映画の紹介文の訳として「顕現」という言葉などは適切なのだろうか、とかいろいろ考えるハメになる。言葉とすると日本語のほうが限定されすぎちゃうしねえ。翻訳に携わる人間は、実は被翻訳言語の能力は実は(重要なんだけど)そこまで重要ではなくて、それよりもむしろ母国語の言語センスがまずいちばんに大事だよなあ、と痛切に感じます。アセアセ。

閑話休題。僕の感想、ということだけど…。

まず断っておくと、おそろしい早さで行なわれる高校生の間の口喧嘩やらやら、この映画は口語におけるフランス語のレベルがかなり高く、会話の理解度としては半分に満たないっす。ストーリーは単純なので問題なかったのだけれど、観終わったあとに一緒に観に行ったフランス人に訊くと通常の映画以上にニュアンス的な会話が重要な意味を占めていたらしく、それが理解できなかったのは至極残念。たとえば、冒頭の高校の文学の授業のシーンで、アデルやその同級生たちが『La Vie de Marienne』と題された本を朗読していっているんだけど、原題が『La Vie d’Adele』なわけだし、それとかもきっとすごく重要だったんだと思う(憶測)。そのあとに主人公のアデルが「マリヴォーすごくいい」みたいなことをちらりと言及してたきがするし。

いま調べたらマリヴォーという18世紀のフランスの劇作家の『マリエンヌの生涯』という未完の小説だったらしい。ぜんぜん知らなかった。「17世紀のロマン・ブルジョア,心理小説,モラリストの文学,ロマン・ピカレスク(悪者小説)の伝統などを踏まえたうえに,恋愛喜劇の名手らしい女性心理の分析がふんだんに盛りこまれている」(kotobank > マリアンヌの生涯とは)…。なるほどなあ、この映画はアデルが思春期から働き始めるまでの間に、同性である女性を愛するうえでの葛藤を描いた映画であるので、彼女が共感を抱いたマリエンヌというひとりの女性の像はきっと物語においても彼女の中においても重要だったにちがいない。さらにググったらル・モンドのアデル批評でもやっぱり触れている。

さて、この映画について周りのひとと話しても、あるいは批評やら監督インタビューなどを読んでもまっさきに触れられていることなのだけれど、この映画は異様に「顔」が強調されている。話すときの顔、食事をしているときの顔、話しているときの顔、キスをしているときの顔、眠っているときの顔…。会話のシーンにおいても、しつこいくらいにカットが切り替わり、話す人間の顔がクローズアップされている。

とりわけ主人公アデルの顔、あるいはアデル扮するアデル・エグザルコプロスの顔は、グロテスクなくらいに、すべてがカメラに収められている。彼女のだらしない口元、あるいはチャーミングな出っ歯はつねに画面に映り込んでいるし、彼女が両親と共にボロネーゼを食べているときのグロテスクさといったら。余りにも自然な光景であるからこそ、思わず我が身を振り返ったというか、ああ我々の生きようというのはかようまでグロテスクなのか、と実感せざるをえなかった。

ちなみに今月号のカイエ・デュ・シネマ(2013年10月・693号)に掲載されているアブデラティフ・ケシシュ監督のインタビューのなかでも、インタビュアーはやはりそれについてかなり突っ込んでいる。監督は「まず顔がフレームを決定づけ、我々が映画を撮るやり方を強制させる」と答え、さらにアデル・エグザルコプロス(しかし何だこの名前)について「彼女はキャメラと融和し、簡単にマスクを脱ぎ去り、簡単にわれわれが欲しいものを与えてくれる」と語っている。睡眠のシーンでは、彼女に眠れと言ったら何の問題もなく本当にすぐ眠りについたらしい。

彼が異常に顔を強調した方法で撮るのは「単純に僕にとっての美学的観点において、それがとても美しいと思うから撮ったまでだ」と言っている。食事のシーンについても「ひとつの感情や欲望の表現になりうる。われわれはなにかを食べているときの”口”に対してだけでも感動できるし、快楽や愛情を感じることができる」。

主演のアデル・エグザイルキプロス(?)のインタビューも同カイエに掲載されているんだけど、彼女自身も「食事のシーンでも、私は下手に魅惑的に演じるのでなく、ただただ目の前のものをがっついて食えばよかったんです。私の役柄において、本能や自発性といったことのほうが、演技の才能を発揮する方面にいくことよりもよりふさわしいと思いました。」という旨の発言をしている。

そしてもうひとつ、この映画を語る上で避けては通れないのは「”過剰すぎる”性描写」ですね。ヒロインふたりによる女同士の12分間にも亘るセックスシーン。YouTubeのアメリカ版予告のコメント観てたら、「ヨーロッパではこの映画は、れっきとした”映画”だということをひとつ言わせて。アメリカに来た途端、レズビアンのセックスシーンだの、レズビアンムービーなどだけが祭り上げられていて、メディアによってこの素晴らしい映画がファックされているのが本当に哀しいワ」とかいうコメントがあって笑った。でも本当に避けては通れない。この映画を周囲のひとと語るときも「果たしてあのセックスシーンは必要だったか?」という話は必ず出てくる。

それへのケシシュ監督の答えは以下の通り。長いですが同じくカイエから拙訳。

Q : 映画におけるセックスシーンが、とりわけ最初のそれが長過ぎる、と口にする人もいます。あなたはまずどのようにそれを考えていますか?
A : とても単純だ。それが私にとっての美であり、真実の感覚である。(中略)われわれはこれほどまで感情移入をした登場人物の内奥まで踏み込むことに慣れていない。われわれはおそらく彼らの行為に視線をやって心地よさを感じることはできないだろう、まるで自分たち自身の行為をスクリーンで観ているかのようにも思えてしまって。仮にあなたが昂奮を覚えても、そこにはどこか狼狽や不快感というものがあって、われわれは完全に心地の良さを感じながらこのシーンを観ることができないのだ。われわれはまた分析的な立場にすらいられないーー肉体や、その美、そして視ることの昂奮に酔わされ、個人的なモラルに抵触してくる何かによって不快にさせられる。(中略)仮に不快感があったとしても、われわれは映画から距離をとることはできない。このシーンを視ることは必ずやこの映画の経験の一部となるのだ

なるほど、この答えで僕は納得できる。あの途方もなく長いシーンの間、僕はさまざまなことを考えた。昂奮や不快感、といった極端な感情とまでは僕の場合いかなかったけれど、それに類似したものはあったと思う。そして、このストーリーにおける意味は、彼女たちは何を考えているのか、役者たちは何を考えているのか、監督は何を考えて撮ったのか、周りのひとはどのように考えているのか。それらすべてをひっくるめて、確かにそれは僕のこの映画を通した経験となったことは間違いない。そして、どのような形であれ、なかでもこのシーンは、この映画を観たすべてのひとにも受け取られ方はさまざまでも、同等の長さの経験を課してくるのだ。監督もそのあと語っている、「劇場から外に出るという方法以外は、映画から離れる方法はない」。

ちなみに、ひとから聞いた話なのでソースは不明ですが、このシーンを撮るのにたしか2週間だか何だか掛かったそう。ただし、アデル・エクセルティラノサウルス(?)のインタビューによると、確かにセックスシーンはなかなか骨が折れる撮影ではあったけれど、クロノジカルに撮影が進んだ上、先輩であるレア・セドゥさんが導いてくれたのでそこまでキツくもなかった(大意)ということを言っていた。女相手は知らないけど、レア・セドゥは確かにどこでも脱いでるイメージが僕もあります。たとえばフランスで最初に観た映画、『GRAND CENTRAL』でもばっちり濡れ場シーンがございました。なんで彼女そんなにフランスで人気なの、ってフランス人の友人のひとりに訊いたら「やたら脱ぐから、それだけ」ってばっさり言われてあはは…って感じだった。

でもこの映画を観てレア・セドゥの魅力が判った気がする。いまフランスではかなり彼女が人気なわけだけれど、けっして端正な美人とは言えない、と思うのよね、古いフィルムに出てくる人間とは思えないような美しさを湛えた歴代の女優たちとはちがって。出来心で「レア・セドゥ ブス」などという感じでググってみたらぜんぜんかわいくない!ブスだ!なんて言っている人もやっぱりいた。けれどこの映画の彼女は、なぜだかやたら魅力的なのだよね。彼女の特徴的な青い髪も、きりりとした目つきも、クールな佇まいも。芸術家という役柄にぴったり合うと思う。というか、本当キャスティングという意味ではヒロインのふたりも素晴らしく、スピルバーグがパルム・ドールを彼女らふたりにも授けたというのは納得。キャスティングの時点でもうこの映画がすばらしいものになるというのはある程度見込まれていたんじゃないかしらん。アデルのインタビューでは「監督は何が決め手となってあなたを選んだんでしょうか?」という質問に対し「監督が”私が食べていたシトロンタルトのおかげできみを選んだ”といったときはすごく傷つきました…」と始めに答えていたのはおもしろかった。

さて、原題では『アデルの生涯』という尭尭しいタイトルがつけられたこの映画。さらに原題ではチャプター1、2という表記がある。アデルが高校生で、エマと出会って愛し合い始めのがチャプター1、それから数年後、エマと別れたアデルは教師として働き始め、彼女の人生を送り始めるのがチャプター2。ありがちななにか悶々とした悩みを抱えていた思春期に出会い、恋に落ちて激しく求め合ったエマという存在は彼女にとって途方もなく重要な存在で、別れたあともエマはアデルにとって人生の中核を成す部分を構成していた、といっても間違いはないと思う。

けれども、最後にエマの個展へと訪れたとき、ほかのモデルと同じように描かれた彼女自身の絵を見たときに、エマにとってアデルとはかつて通り過ぎた数ある女性のなかのひとりに過ぎなかったということを悟る。アデルはあれだけエマただひとりの存在を希求し続けていたのにもかかわらず、エマはアデルをひとつのピースとして、あくまで通過点として彼女を消費し、彼女自身の芸術に昇華させていたのであった。エマはそういう意味でとても強い、けれども対照的にアデルはかほどまでに弱い存在なのだ、と彼女自身が自覚することになる。ああ、なんと哀しい恋の物語でしょう。それは単なるひとつの失恋の物語であるとわれわれは片付けられるかもしれない、けれども3時間にわたる映画のなかでアデルとともに成長してきた観客にとって、個展を出て道端に消えてゆく彼女の背中に、物悲しさを感じずにはいられないし、彼女の今後も続くであろう「人生」について、想像力を働かせないわけにはいかないのだった。

この映画を見たことで、僕の人生の中の連続する1つ行為のなかで変化を及ぼしたということがあって、それがきっかけで僕はまた改めて映画のなかのアデルの人生について考えを巡らし、ひいては自分の人生の、それぞれの瞬間についての考えを巡らし、何かいつもとは違う方法で日常を捉え直そうとしている自分がいることにはたと気付いた。僕はそういう映画に出会いたいからこそ、映画を観ているのかもしれない。

人生はおそろしく長い。映画でうまく編集されたそれも、僕らはいつも家に帰らなければいけないし、眠らなくてはいけないし、あるいはこの映画で我々が冗長だと感じたかもしれないセックスだって本当はもっと長い。僕らはずっと自分自身と付き合っていなくてはいけない。自分自身からは逃げられないのだ。たった3時間の映画で、それをすべて表現するのはむずかしいと承知した上で、恋愛というテーマを置いて、最大限にそのことを伝えようとしたのではないか。だからこそ、アデルの生涯、なんて尭尭しいタイトルが付いているんじゃないかなっておもった。いい映画だった。

日本でも2014年春に配給、公開されるようです。おすすめなので、公開された暁にはぜひ。


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