家入一真氏、都知事選立候補、「ぼくらの政策」、なんのための選挙?

家入一真氏、都知事選立候補、「ぼくらの政策」、なんのための選挙?東京では、家入一真氏が都知事選に立候補し話題を集めているようです。

ざらーっとまとめなどを参照した限り、いつものように半分ノリで立候補を仄めかしたらば、意外とうまい具合に転んでいったので出馬を決めたという流れのようですが、彼のツイッターアカウントを始めとして、家入一真都知事選立候補者特設サイトなんてものもできていて、少なくともツイッターを中心とするインターネット界隈では盛り上がっている様子が伝わってきます。

選挙というと想田和弘の観察映画『選挙』で描かれていたような(昨年話題を集めていた『選挙2』『立候補』なんかは観れてない…)、選挙カーで空虚な笑顔を振りまきつつグルグルしたり、寒いなかうだうだと中身のない街頭演説をしたり、関係各所にヘコヘコと頭を下げたりという光景が思い起こされますが、彼はツイッターを中心にネットのみで経費ゼロで選挙活動を進めているようです。のべ6000人が閲覧したというネット中継、ポスター貼りの支持者の協力をタダで取り付けたり、期日前投票ハックをしたり(「各種メディアが発達しているポスターを見るだけで投票する人間なぞほとんどいまはおらず、悪しき伝統にすぎないのだから街頭ポスターは撤廃すべき」と言っているひとがいたのですが、何となくポスターだけで投票しているお爺ちゃんお婆ちゃん、まだ一定数存在している気がする)、インターネットを舞台にし「祭感」を演出することで、彼らしい面白い選挙をやっているようです。なによりも16人(!)の候補者のなかで、家入氏を除く全員が55歳以上、唯一35歳若手というのは、それだけでも出馬の価値がありますね。

ただ、それでも彼を支持するかと問われるとウーム…と唸ってしまう。

公式サイトを訪れると、家入氏からの言葉が掲載されています。一部を抜粋。

ぼくら自身がもっと自分のこととして考えていくことから、世の中は望む未来に向かって変化していくんだと思う。
決して、誰が勝った負けたとか、○か×かとか、右か左かとか、そういう今の政治が繰り返しているポジショントークじゃない。

寺山修司が「わたしは世の中の質問になりたい」って言っていたけど、ぼくも今回の選挙ではそんな存在に目指したいと思う。
『 #ぼくらの政策 』からどんどん日常で感じる疑問やアイデアなんでも聞かせてほしい。またはネット中継にコメントしてくれてもいい。
そして見せかけの答えばかり提示して票集めするTHE政治家に対して、ぼくらはインターネットをフル活用して、今東京にはこんな問いがある、未来にはこんなアイデアがあるってのを形にして示していきたい。それが民主主義のはじまりだと思うから。
だからみなさん、この選挙は今までの政治のイメージを一回ゼロにしてください。

そして新しい祭りだと思って、一緒に楽しく盛り上がっていきましょう。東京はぼくらの街だ!

これだけ読むと、若者の僕なんかからしてみれば、ふむふむなるほど新しいし面白いねえと思いがちです。なかでも彼が公式サイトだけでなくさまざまな箇所で多用している「ぼくら」という言葉によって、たしかに彼自身と有権者との距離が一歩近づいたような印象を持てます。

家入氏本人やその取り巻きだけでなく、「ぼくら」全員の疑問や意見を取り入れ、それを彼が政治に反映させてゆく。その取り組み方として、現在ツイッターにハッシュタグ「#ぼくらの政策」をつけて各々がつぶやいたものを、公式サイト上に有志がまとめ掲載しています。

「ぼくら」って「みんな」?何のための選挙?

しかし、ここに違和感がある。「ぼくら」って「みんな=非有権者も含む社会の全構成員」という理解で正しいのだとしたら、それって何だかそこに齟齬がうまれてしまう。選挙の根本の原因がわからない。

仮に、家入一真氏が当選するとしてみましょう。このままゆけば、当選後も各課題に対し、「#ぼくらの政策」、あるいはそれに類似したシステムを通じ「ぼくら」民衆から意見を吸い上げ、それを政策に反映してゆこうとされるはずです。

さて、ここで問題になってくる「ぼくら」。当たり前の話ですが、ぼくらは、ひとつの問題に対し各々がかなり異なった意見を持っています。原発問題ひとつ取っても、「原発がないと経済が終わる」なんて言って原発稼働に賛成する人もいれば、「原発は即刻永劫に廃止するべきだ」と明確に反対を打ち出すひともいます。世論はその2極に分断されているわけではなく、「再生可能エネルギーが実用化されるまでは稼働」「フクシマ復興が一段落するまで全停止」など、その両極の間にグラデーション状に散らばっているわけです。

彼のスタンスとしては、「ぼくら」みんなで話し合って、その「グラデーション状に拡がった世論」のなかから最適解を見つけてゆく、ということなのだと思うのですが、もちろんのことながら、構成員すべてが満足できるような最適解なんて見つかることは稀である。都知事として、構成員により対話を促すことなどはできるし、今回の候補者のなかでそれがいちばん可能なのは家入氏だとは思いますが、いくら対話をしたところで、そもそもその構成員すべての要求を円満に解決というのはほぼ不可能と言っていい。

ツイッター上で支持を表明しているらしきひとびとの層はゆるいリベラルの10代〜30代あたりな感触がありますが、ある程度支持者同士が似通っている現在でさえ、#ぼくらの政策上にはまったく違う方角を向いている意見がカオスにまとめられ載っていたりする。なのに彼が本当に都知事に就いたら、彼のもとにはリベラルな若者だけではなく、極右の方々なんかの意見もかなり寄せられるでしょうし、もちろんお年寄りの意見もある程度届くことになるでしょう。とりわけ彼が推している「社会的マイノリティの声」をもすべて拾おうとしたらば、マイノリティと言っても多様なわけで、ほんとうにいろいろな声が集まることになる。

それが、ぜんぶうまく拾えるならいい。けれどそううまくいくものかしらん。そもそも、そうした交錯する多様な意見のなか、もっとも支持されているものを民衆が選ぶというプロセスの最たるものが、「選挙」なはず。彼が当選したら、それこそ「何のための選挙だったんだ…」ということになりかねない。

政治が動くとき

彼が言う通り、たしかにいまは「ポジショントークを繰り返し」、「見せかけの答えばかり提示して票集めするTHE政治家」が跋扈しているのかもしれない。もちろん微笑ましい現象ではありません。日本をいい方向に導いてくれる真摯な政治的リーダーが現れてほしいと僕だって切に願っている。けれど、なぜそうなっているか(そう思ってしまうか)というと、それが「もっともうまく社会が回る方法」だからだと思うのです。

「交錯する多様な意見を吸い上げ、政策に反映してゆく」プロセスには、十分に強いパーソナリティと、明確な政治的思想が求められます。反対意見に耳を貸し、すり寄っていくことは大事だと思いますが、それらをすべて拾っているようじゃ何も動けなくなってしまう。ある程度、それらを無視して進めるからこそ、政治は進んでいく。安倍政権は、さまざまな声を「無視」あるいは「無視するフリ」をして法案を次々に成立させていっているようですが、ここ数年の首相と比べて、たしかに安倍さんのもとでは政治が動いていっている感覚がある。

なぜそれらを無視することが認められているのかというと、彼らは「選挙・投票でいちばん支持を集めた当選者」だからです。もちろんそれに反対の声を上げるのは自由だし、その反対の声が次の選挙で賛成を上回れば、世論から承認を取り付けたということで政治の方向性はまた変わっていく。それが民主主義の基本原理なのではないでしょうか。

なにかを決めるときは、他をいちど切り捨てる、というある種暴力的なプロセスをとらないといけない。30人の生徒がいるクラスで文化祭の出し物を決めます。A、B、Cと意見が出て、それぞれが各々の正当性を主張して埒があかない。だから全員の多数決でいちばん手があがったAに決まりました。B、Cをそれぞれ支持していたひとは不満に思うかもしれないけれど、いくらそう思ったところで、多数決という方法で決まったのだから、その決定を覆すことはむずかしい。拗ねて準備に関わらなかったり、文化祭を休んだりするよりも、文化祭準備にフルコミットしていかにAという出し物を納得できるよいものにして、みんな文化祭を楽しむか、という考え方をしたほうがよっぽど生産的である。多数決というプロセスは、たしかに暴力的だけれど、もっとも合理的です。それが民主主義の肝だとも思います。

家入氏がもし当選したら

ということで、政治的思想や知識がほぼ皆無(と打ち出している)家入氏が当選したらどうなるだろう?選挙のプロセスを通じて、なにもおおまかな方向性が決まっていないのと同義です。在任中、すべての意見を拾おうとしてしまって何も動かなってしまうか、あるいは、彼もしくは側近のパーソナリティが色濃く出始める「マニフェスト違反」という矛盾に陥るしかなくなるのではと危惧しています。

彼の支持層は「『投票に行かない』と答えた層」というちきりんさんの記事がありました。先に述べたように、僕の実感ではゆるいリベラルの10代〜30代が多い感覚です。近頃、僕はひょんなことからいわゆる極右と呼ばれるひとたちの意見に触れることが多いのですが、極右思想自体には共感しないまでも、彼らの姿勢には驚くほど強いものがある。すごい勉強しているし、発信の強度はすごい。そんな層と投票に行かない層が真っ向勝負しようものなら、あっけなくその層が粉砕してしまうのではないでしょうか。実際、どの層が支持するかは彼の動き次第ではあるとおもいますが。

アレ、やっぱり家入氏いいんでないの

と、家入氏を批判する内容を書いていたのですが、書いていた途中でいい方法が思い浮かびました(ふらふらしています)。というか、みんなここまで考えているから支持しているのかな、などとこれまでの自分の主張が恥ずかしくまで思えてきた…だれでも思いつくかこれ…。

たとえば、田母神氏。争点となっている各事項に関して、彼の立場をわりかしはっきりと明らかにしています。有権者は、それぞれを点検し、原発維持の思想が彼に近いと思っても、消費税反対という立場は納得がいかない。けれど他に「より近い」投票できる候補者なんていないから、しようがなしに田母神氏に投票する。そうして田母神氏が当選したらば、任期中には基本的に出馬時に掲げたすべての点を実践しようとするはず。彼に投票した有権者は、彼の活動すべてに納得できるわけじゃないが、いちど選ばれてしまった以上、反対意見を唱えることはできても、「投票」という形では政治に参加できない。直接の政治参加ができないから、政治への関心は徐々に薄れていってしまう。東京だったらまだましだと思いますが、地方政治に常にアンテナを張り続けられる人って、かなり少数な気がします。「最近知事がなにやっているか知らない」状況なんてザラ。

前回の参議院選でも問題として挙げられていましたが、争点が多すぎるからこそ、投票先を決められない。今回の都知事選もある程度、同じ状況だと思います。「政治家・政党の投票」という合理的な選挙プロセスは、あまりにも大雑把に切り取ることしかできない、というデメリットがある。

家入氏には「プチ選挙」をやってほしいです

そこで、家入氏は、当選したらば、主要な争点をまた有権者に問い直す「争点ごとのプチ選挙」をやればいいのでは。なるたけ多くの有権者(18歳以上なんかが含まれていたって構わないかもしれない)がインターネットなどでも簡単に投票できる仕組みを構築し、主要な争点に着手する前に、いろいろな意見を聞き取り、項目化し、投票させる。当選した意見を下地に、また有権者の意見を聞き取りながら、形にしてゆく。

これは多数決という暴力を用いて最初に述べた問題点を克服しつつ、各項目別に細かくコミットでき、彼の理想とする「ぼくら」にもっとも寄り添っている、すぐれたやり方ではないでしょうか。有権者も、選挙だけに留まらない直接政治コミットメントが可能なので、政治への関心は薄まりにくく、彼の掲げる「政治を身近にする」という項目も達成されるような気がする。

これを実現するにあたって選挙でさえ投票率低下が糾弾されているなか、一定の投票率を確保するために、「投票の仕組みづくり」が大事なわけですが、そこらへんは彼らの得意とするあたりでしょう。インターネットを中心に(もちろん、ITに疎い層のためにインターネット上だけに留まっていては行けないと思いますが)、そういうふうに政治が動いていったら、たしかに社会も変わっていくかもしれないという希望をすこしでも抱くことができる。こういう革命的な仕組みを導入できるのは、たしかに家入氏しかいないかもしれません。

ということで

ツイッターからすこしヲチって思ったことを文字に起こしてみました。アカデミックなリファレンスは皆無ですがご容赦ください。むしろアイデアとして似たようなことを言ったり書いたりしているひと、いると思うのでご存知でしたら教えてください。あるいは、完全に反対意見を唱えている場合も。

僕はもともと東京都民でもない上、現在フランス在住中と、どちらにせよ有権者でもなんでもないのですが、フランスから都知事選の行く末を見守ろうかと思います。有権者のみなさんは、投票には行きましょう。

しかし、こうしてフランスに暮らしている僕でさえも選挙の様子がある程度見えてくるというのはそれにしてもすごい世の中です。ツイッターって、本当に日本社会の縮図になっている気がしますね。個人のタイムラインに現れるそれが民意などではないという話は参議院選挙と『災害ユートピア』の終焉という記事で書いていて、いまもその意見は変わらずなのですが、すくなくとも”そう錯覚させてしまう”カオスがある。日本におけるツイッターのような、フランスにおける社会のカオスを集積し可視化してくれる装置を捜しているのですが、僕がまだアクセスできていないだけなのか今のところ見当たりません。これもだれか知っていたら教えてほしいなあ。どこかしこもきれいに「分断」されている感じがします。しかしこの分断の感覚こそが、まさしくフランス社会の特性そのものなのかもしれないと最近思うようになってきたのですが、その話はまた機会があれば。


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