『猿の惑星 : 新世紀(ライジング)』、僕たちは猿の世界にかくも感動できる

『猿の惑星 : 新世紀(ライジング)』、僕たちは猿の世界にかくも感動できるla-planete-des-singes-l-affrontement-dawn-of-the-planet-of-the-apes-30-07-2014-7-g

劇場を出て早々に「いやあ、オモシロかった!」となんのためらいもなく興奮の入り交じった第一声をあげた。誰かと観ていた映画が終わって、すぐさまその感想を相手に伝えることに一瞬躊躇ってしまうことは多い。なぜなら「一言目」はそのあとの話の方向性を決定付けてしまうからである。だれかと映画を観に行くときは、エンドロールが流れている間に映画の1シーン1シーンを反芻しながら、「さてなんて相手に切り出そうか」と考えるのが常だ。会話さえうまく始まってくれれば、あとはなんとでもなるけれど、一言目には注意を払わないといけない。

この『猿の惑星: 新世紀』に関しては、臆面なく僕から「一言目」を伝えられたし、すぐさまこの感情を発露して誰かと共有したかった。そういう映画はけっこう珍しい。かくして「オモシロい!」という一言から狼煙が上がり、そのあとの方向性が決定付けられた話の興奮はしばらく収まることなく、映画館を出て一服している間も、家に帰るためにメトロに乗っている間も、深夜営業のケバブ屋でケバブを搔き込んでいる間も、ひたすらに映画について止まらずに話し続けるのだった。こうして8月のパリの夜は更けていく。いやあヤバかったなあ。最高の映画です。

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『猿の惑星』シリーズは、いちばん最初の『猿の惑星』(1963年)を中学生のときに地上波で観たっきりだった。今回のリビルド版、1作目である『猿の惑星: 創世記(ジェネシス)』なんかもスルーしていたのだけれど、かつてシリーズ1作目を中学生のときに観た衝撃と興奮はまだ記憶に残っていて、フランスで8月に公開された今回の『新世紀』へは過剰な期待を抱くわけでもないながらも、何となく劇場へ足を運ぶことになった。

だから、僕はリビルド版1作目を観ずに2作目から観たことになる。そのあと結局DVDで『創世記 ジェネシス』も観たのだけれど、確かに1作目は観ていたほうが主人公の物語に深みが出るのでいいものの、2作目からでも話についていけないということはないし、見ていない方も十二分に楽しめるはず。『創世記』も圧倒的に練られている脚本といい、すごくよかったけれど、とにかくそれを余裕で凌駕してくる『新世紀』は最高すぎて最高だ。ここ最近観た「SFアクション」というジャンルの映画の中だったら圧倒的なところに君臨すると思う(「SF」というところに幅を広げるのであれば、スカーレット・ヨハンソン主演『アンダー・ザ・スキン 種の侵食』もまったくべつのベクトルで素晴らしかったが、それでも『ライジング』に軍配が上がる)。

 

自らが生み出したウイルスによって、人類の90パーセントが死滅した2020年代の地球。サンフランシスコでは、かろうじて生存している人類と驚異的な遺伝子進化を遂げた猿たちのコミュニティーがゴールデンゲートブリッジを挟んで存在していた。人類のコミュニティーでは、衰退を食い止めるためにも、猿たちと対話すべきだとする者、再び人類が地球を支配するべきだとする者たちが、それぞれの考えに従って動き出す。一方、猿たちを率いるシーザー(アンディ・サーキス)は、人類と接触しようとせずに文明を構築していた。

というところがあらすじなのだが、物語について触れるまえにまず最初に言うべきは、映像がすんばらしすぎるという点である。猿はみなCGなようなのだけれど、その感じがまったくしない、まるで本物の猿たちを見ているかのようである。しかも猿の一体一体にはちゃんとした顔面・身体的特徴があって、懸念するほど「あれ…この猿ってどいつだっけ…」ってならない。シーザーの顔はきちんとシーザーの威厳ある顔をしているのだ。

こういうある意味「正当派」のSFアクションにおいては、(とりわけ最近の映画は)映像がショボいと萎えてしまうのでそういう意味では悠々とそのポイントをクリアしている。そうしてその映像こそが、のちのアクションシーンの興奮を支える土台ともなる。馬を走らせながらマシンガンをぶっ放す猿なんて、これまで見たことがない。映像的な悦びが、いくつもあった。

 

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そしてなによりもこの映画がすばらしいのは、ツッコミが入らないという点。SF映画ってどうしても観ながら粗捜しみたいなものをしてしまうと思う。物語がある以上、SFに限らずなんでも言えるとは思うんだけれども、とりわけSFというジャンルにおいては「いや、ありえないから!」とか「ここはこうならないでしょ!」みたいなツッコミを往々にして入れがちである。「SFなんだから多めに見てやりなよ、そこをある程度看過しないと純粋に映画を楽しめなくなっちゃうよ」という反論もあるだろうが、僕はこの「SF映画に対するツッコミ」という鑑賞姿勢はけっして間違っているものではないと考えている。人間の性質上、論理的に物語を追っていってしまうのは仕方ないし、いかに粗を出さず丁寧に物語を築き上げるかというのはサイエンス・フィクションをつくる側に課せられた(観る側にとっても)重要なポイントである。だから僕は、過度にならないように気をつけながらも、ツッコミを入れることを躊躇わずにSF映画を観るようにしている。「ツッコミが入りすぎる」SFアクションは、(それ自体を目的とする場合を除けば)たいていクソな映画だ。

 

ではなぜツッコミが入らなかったのか?それは主人公が「猿」だからだ、と思う。たとえばこれが「人間」vs.「人間」だったらもちろん物語が成り立たない箇所がいくつもある。主人公が猿で、その仲間も猿であったからこそ、われわれ鑑賞者は人間のそれとはまったく異なる前提やコンテクストを物語に当てはめ、「いや、こういうふうには考えないでしょ」「こんなふうに動かないでしょ」といったツッコミを入れずにすむ。猿たちの言動や行動が提示され「ああ、猿ってそうなんだね」みたいな前提が無理なく共有できるので、テンポよく進んでいく物語に待ったをかけることなく、限りなく高い吸収率で楽しむことが可能になる。制作側はそのことをよく自覚した上で、練りに練られた脚本が書いているとよくわかる。

 

さきほど引用したとおり、『新世紀』は、『創世記』から10年後、人類がほぼ死滅した世界というかなり大胆な設定で物語が始まる。前回の『創世記』ではその「人類絶滅」の予兆を感じさせたところで終わったのだが、その間の10年間に「人類絶滅」が進んでいくさまは、『新世紀』のはじめの数分で事実がニュースリポート形式で一気に説明されるのと、登場人物の中の会話でときおり示唆されるというだけで、基本的には省かれている。

これもまさに、「猿が主人公」だからこその設定だ。人間はあくまでサブキャラクターであって、物語の力点は人間の趨勢に置かれているわけではない。『創世記 ジェネシス』の物語は人間とともに始るこそすれ、結果的に人間はさしたる重要性を持たないし、人間側の主人公とおぼしき科学者も最後には物語に大した影響を与えない。あくまで物語を主体となって動かしているのは、猿であって、猿社会のトップであるシーザーなのである(後述するが、それでいて優れているのは猿の様態こそが「現代社会に生きる人間」への強いメッセージにもなっているという点でもある)。

 

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改めてこの事実に驚く。よく言われていることだとは思うけど、これまでロボットを含め人間以外の生命体が登場するSF映画はいくつもあった。けれど、いつも主人公は人間で、人間視点で地球が侵略されるさまだったり、異なる惑星で異なる生命体との邂逅を遂げたりと物語が動いている様子を追っていたように思う。これまでの『猿の惑星』シリーズも、「猿が高い知能を持っている」点では同じだが、すくなくともあくまで「猿の社会に飛び込んだ人間」視点であって、それはこの新しい『猿の惑星』シリーズでは完全に逆転しているのだ。映画はシーザーの顔のアップから始って、それから15分は猿しか登場しない世界が描かれている。その15分で僕たちはすでに興奮し、猿に感情移入をできる。

もはや、「こういう高い知能を持った猿が現実にいてもいいんじゃないかな」とさえも僕は普通に思ってしまった。これはSF映画においてかなり成功した例だと言っていい。ツッコミが入らないということは、現実に起こりうるかもしれないと観客であるわれわれが考えるということだ。だからこそ「起こりうるかもしれない未来」を見てわれわれは興奮する。物語のなかに働いている想像力に触れたいと願う。

 

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ここまで猿が猿がとくどくどと垂れてきたが、その主人公である「猿」の対立項におかれているのは、もちろん「人間」である。「猿側の価値観」と「人間側の価値観」という2つの異なる価値観が、物語のなかで重要なものになってくる。

この映画のもっともトリッキーな仕掛けは、主人公が猿に据えられていながらにして、この映画の観客は当たり前だが「人間」なのである。猿からの視座に力点が置かれ、感情移入できるのと同時に、人間からの視座もすでに観客が獲得しているからこそ、「どちらの立場もよくわかる」観客は、その両種族の接触のたびにハラハラさせられる。のちに訪れる物語構造の変化が上手い具合で展開されるのも、この素晴らしい比率で伯仲する対立関係に依るところが大きい。

これからネタバレ部分に入ろうかと思うんですが、これから言うポイントがなさそうだから一応そのまえにいっておくと、物語中盤、森のなかの廃墟となったガソリンスタンドで爆音で流れるThe Band『The Weight』、すごくぐっときた。思わず体でリズムをとってしまう。猿が猿がといってきたけれど、やっぱり人間っていいものだよなあ。だってこんなすばらしい音楽つくれるんだぜ。こうして踊れるんだぜ(『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を思い出しますね)。そんな言葉を、僕は人間として、スクリーンのなかでぽかんとしている猿たちに思わず言ってやりたくなった。紛れもない名シーンだ。


– – – –  ネ タ バ レ 線  – – – – 

物語のはじめから、やたらしつこく繰り返されてきたフレーズがある。「猿は猿を殺さない」である。僕は物語を追いながら、いまいちこの標語がこんなに強調されている意味を理解せず、物語は終盤へと差し掛かるのだが、もちろんこのフレーズには深い意味があって、この「猿は猿を殺さない」という価値観こそがこの映画においてもっとも重要な役割を担っているといっていい。

コボによる暗殺の企てに倒れながらも、人間側のシーザーの深い理解者であったマルコムら、人間たちによって助けのおかげでなんとか一命を取り留めたシーザー。「僕の父は人間の手によって殺された」と思い込むことで人間へと反乱を起こすコボたちに従っていた息子が、まだ息をしているシーザーに対面し、彼は父の口から真実を知る。驚きを隠せない息子に向かって、シーザーは訥々と語りかける。

「俺はこれまで猿は人間より優れていると思ってきた。けれど、ある点ではわれわれは変わらないのだとようやく気づいた」

この台詞に劇場では軽く失笑としている人たちがいたのだけれど、これも猿たちの価値観を示す大事な台詞だと僕は思う。なぜ猿は人間より優れていたのか?「猿は猿を殺さなかった」からだ。そして同時に、人間が絶滅の危機に瀕しているのは、互いを同族を殺し合ったことに起因する。『創世記』のクライマックスでシーザーがはじめて発した「NO」に次ぐ単語は「HOME」だった。家、家族、そういうものがこの世でもっとも大切にされるべきだという価値観のもとに彼らは成り立っている。彼らの生の歓びはすべてその点から出発している、そう感じさせる所作がいくつも劇中に散りばめられている。こういう論理からこの台詞が出てくるわけで、猿が言っているから奇妙に聞こえるのではなく、猿が言うからこそ説得力があるのではと思う。これは人間社会に対するアンチテーゼでもあって、また、知性を持った生命体の「自然状態」とはいかなるものか、どうあるべきか、という問いかけでもある。

 

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だが、平気で同族を殺傷する人間よりも、猿のほうこそが優れている、そう盲目的にシーザーは信じようとしていたのに、コボは権力を求める私欲のもとこの禁忌を侵した。シーザーは自身の右腕であったコボの弾丸に倒れる。その行為はかれの嫉妬、怨念、顕示欲のようなものが引き起こされたのだが、そういったネガティヴな感情は、人間のみが抱くものではなく、猿でも抱くものなのだ。そうシーザーはコボが引き金を引くまえの一瞬のうちに悟る。そしてまた、シーザーが一命を取り留めたのは、何より「他者を想う気持ち」を素直に発露させているマルコムら人間たちの手によるものだった。そう言った意味での「われわれは変わらないのだ」。

その台詞を最後の契機にして、物語における構図に一気に変化が現れる。はじめはシンプルに〈 猿 – 人間 〉の軸で展開されていた物語が、もともと人間に理解のあったマルコムらとの接触を経て徐々に変化を見せ始め、種族の境目がなくなり〈 いがみ合う者たち – 理解し合う者たち〉という構図へと発展する。あまりにも単純すぎる構図かもしれないが、この単純な構図の推移を、至るところに散りばめられた台詞や行動で伏線を回収しながらかくも演出できる完成度の高い映画は稀なのではないだろうか。ここまで美しく描かれていると、このシンプルさが気持ちよいのだ。繰り返すが、そのシンプルさもひとえに「猿」と「人間」というふたつの明白に異なる種族を登場させた功名だろう。

 

シーザーとマルコムがそれぞれの社会でトップに立っていたころ、お互いのために戦争はしないという約束が猿と人間の間で取り交わされた。しかし、それはすぐに呆気なく破棄され、全面戦争に突入する。ここに「なぜ戦争は起きるのか?」という普遍的な問いへのひとつ回答がある。戦争は、一集団が他集団より優れていると信じ、征服欲のもと引き起こされるのではない。むしろ反対に、戦争は自身の生存が脅かされるのではないかという他者への恐怖から始まる。まさしくこの映画でも、絶滅寸前まで追い込まれた人類と、かつて人類が栄華を極めていた時代に割りを食されていた猿たちは、お互いに「もし彼らが襲ってきたら」「襲われるまえにこちらから仕掛けてしまえ」という他者への恐怖を土台に組み立てられたロジックのもと戦争の口火を切ることになる。

それはまさしくいま現代社会で起きていることとも同じで、日本における右傾化は韓国人や中国人の侵略といった自らの生存が脅かされるのではという過大な妄想に起因すると言っていい。フランスでも、移民によってもたらされた治安の悪さやネガティブな事象に恐怖し、「かつての美しかった国フランスを取り戻す」という論理のもとジェノフォビアが展開されている。戦争という暴力は、過去の惨事と共に洗い流されたわけではない。現代社会に存在しているシンプルな感情、自己愛によって引き起こされるということである。グローバリズムに対抗し掲揚されるナショナリズムへの警鐘。

 

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そして舞台は塔の頂上に移る。人間のコミューンの中心に位置する塔の上では、新たに恐怖政治を行うことによって覇権を握り、人間への征服を押し進めるコボを、ほかの猿たちが取り巻いている。そのコボのもとへと、彼が殺し損ねたシーザーがゆっくりと登場する。その姿を一目見て、かれの策略のすべてを明かされるのではと心中で恐怖するコボ。しかしシーザーは、彼をいまだに慕っている周りの猿たちに語りかけるわけでもなく、ゆっくりとコボだけを視界にいれ威厳を伴って彼のもとへと歩いてゆく。お前が俺を殺したのだと糾弾するわけでもなく、彼のことを救ってくれた人間の話をするわけでもなく、ただただコボに真のリーダーの座を競って決闘を申し込む。

ここも「人間」vs「人間」であったとしたら成り立たないすばらしい場面だ。猿だから、そしてシリーズ1作目から主人公として目撃し、性格までもよく知っているシーザーだからこそ、この展開に何のツッコミもなく鑑賞していられる。どんなに汚い目に遭っても、あくまで猿の社会におけるルールから逸脱することなく、あくまで猿のやり方で、「決闘」というもっともクラシックなやり方を曲げずに真正面からコボに挑むシーザー。そのシーザーの人格にわれわれはここでさらに感銘を受け、ここから始まる塔の上での戦闘にシーザーを応援する素直な気持ちとともに入り込めるのだ。観客の昂奮が高まらないままにひとりでに展開され、観客が置いて行かれてしまうアクションシーンをいままで何度観ただろう。この映画はちがう。僕らも拳を握り、固唾を呑んでシンプルな1:1の決闘を目撃する。その昂奮は先にも述べた映像によって担保される部分も多い。猿同士ということもあって、なんだかすごいものを見ている気にさせられる。

 

いっぽう、塔の下では、ゲイリー・オールドマン扮するリーダーによって率いられる「猿のことを何もわかっていない」人間たち(=〈 いがみ合う者たち 〉側の人間)と、マルコム(=〈 理解し合う者たち 〉側の人間)が再会を遂げている。人間軍は、塔を爆破し、一気に猿たちを殲滅しようと企んでいた。それこそが、人間が唯一生き残る道である、と。それを知ったマルコムは、なんとそれを阻止するため同じ人間に銃を向けるのである。「おいお前それはないだろう」というマルコムに対してのツッコミを入れたい気持ちを押さえながら、これはあるいはまたもや「暴力を暴力で解決しようとする風潮が跋扈する国際社会」のメタファーなのではないかと思った。塔の頂上で、シーザーとコボが正々堂々と勝負しているふもとで、人間であるマルコムは、人間社会の正しい在り方である「ことばによる解決」はせずに、銃を突きつけるという一方的な暴力によって彼と相容れる集団を制圧しようとしているのだ。同時発生的に展開される猿と人間のコントラストが痛快だった。正しさという意味では、猿のほうが人間よりも優れているのかもしれない。

 

しかし、けっきょく塔は、爆破されてしまう。激しい決闘の最中だったシーザーとコボは、崩れてゆく塔に決闘を中断せざるをえない。ついには、コボが足を滑らし、塔から落ちていってしまう。だがそのコボの手を反射的に掴んでしまうシーザー。ここから始まる応酬こそがこの映画を通してもっとも痺れた、すばらしいシーンだ。コボの命は、これまで戦っていたシーザーの手にゆだねられている。シーザーが手を引っ張ればコボは助かり、シーザーが手を離せばコボは死ぬ。それを悟ったコボは、シーザーの顔をまじまじと見つめる。そしてこう言うのだ、「猿は猿を殺さない、だろう?」、と。

もう僕はこの一言に完全にしてやられた。最後の最後、この場面でこのフレーズがこうも回収されてくるとは思いもよらなんだ。そう、シーザーは「猿の掟」をもっとも尊重するリーダーなのである。シーザーの心は揺らぐ。そうして見上げると、周囲には複雑な顔をした猿たちが彼らの行く末を見つめている。「そいつはわたしたちを裏切ったのだ」と猿たちは顔で訴えつつも同時に、彼らはシーザーが猿の掟をきちんと守るリーダーだということがちゃんと判っている。そういうのをすべて承知しているからこそ、シーザーはコボの手をつかみながら、逡巡する。俺がこの手を離せば、俺に対して弾丸を放ったコボと同じ存在に成り下がらないか。しかし、ほかの仲間のためには……そうした彼のすこしの逡巡の間、僕はもう体を乗り出してしまうかのごとく昂奮していた。彼はいったい、その台詞になんて答えるんだ。どうするんだ。ああ、シーザー、僕らのシーザー。

 

シーザーはそうして、覚悟を決めた顔でコボにこう言い放つ。「コボは、猿ではない」。この台詞を聞いて、もうさっきのひとこと以上に僕はやられた。ウオーーーー!と思わず叫びそうになった。シーザーは手を離し、コボは奈落の底へと落ちてゆく。いやあ……「猿は猿を殺さない、だろう?」「お前は、猿ではない」というこの短い応酬に、言うまでもなく僕がへらへらと語ってきたこの映画のエッセンスがすべて詰まっている。なんてすばらしいシーンなんだ。なんてすばらしいシーンなんだ。最高すぎるだろう。

 

ここから一気にクライマックスへと向かうのだが、もうひとつ、これはいっしょに観に行った友人がはじめに提起してきたことなのだけれど、この映画は「9.11と関係しているのでは」。言われた瞬間、はっと思い返してみたのだけれど、そういわれるとそうとしか思えなくなった。塔は爆破され、崩れてゆく。僕はそれを見たときは「バベルの塔かな」と思ったのだが、それはあたかも、2011.9.11にワールドトレードセンターが飛行機の突撃を受けて崩れていったかのようである。なにより、そもそも、「塔」が「塔」であった物語上の必要性は皆無だ。はじめから塔の存在はちらちらと画面上に現れていたが、そのなかで塔の存在理由に関して説明された箇所はひとつもない。まったく説明のないまま、なぜか最後には猿たちが集う場所になり、人間の手によって爆破される。

「アメリカ同時多発テロ事件陰謀説」が、事件から10年以上経過したいまもまことしやかにささやかれている。くわしくはWikipediaなどを参照していただくとして、文字通りテロはアメリカ政府によって内密に自作自演で仕込まれたのではないか、という推測の域を出ない説である。陰謀説はともかくとして、リベラルな姿勢を取っていたアメリカはこの事件によって一気に右傾化し、メディアでも批判の強かったアフガニスタン・イラク戦争などを強硬姿勢で開始する。それはさいきんお茶の間をにぎわしたスノーデン氏による機密文章の暴露など事件につながってゆく。

その陰謀説やそうしたその後の社会趨勢などを今回の映画と照らし合わせてみると、共通点が見えてくる。まず、人間によって建設された塔を爆破したのはほかでもなく人間である。そしてたとえばほかのシーンでも、さきほど述べた通り映画内でコボが覇権を握るまでに至ったのは、「人間(=敵)がこんな武器を保持している。これは我々を攻撃するつもりに違いない」と法螺(?)を吹いて回り、敵を外につくりだすことで猿たちの支持をどうにか勝ち得て戦争へと踏み切ったからである。そうなると、いよいよ「9.11陰謀説」の隠喩であるようだ。すくなくとも、さきほどナショナリズムとグローバリズムについて書いたとおり、すくなくともそれは9.11と関係があると間違いはないように思う。またその視点で見直す必要がある。

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塔は爆破されたが、どうやらコボ以外は助かったようである。しかし、これでは戦争は収まらない。もはや人間側にしか〈いがみ合う者〉は残っていないが、どうやら彼らが呼んだ援軍が、猿を殲滅するため大量の武器を揃えてまもなく到着するというのである。〈 理解し合う者たち 〉同士である、マルコムはシーザーにその事実を伝えるが、シーザーは毅然としてこう返す。「戦争をはじめたのはわれわれだ。われわれがその蹴りをつけなければならない」(あやふや…)…。マルコムとシーザーは額を寄せ、シーザーは踵を返し、仲間とともに新たな戦いへと歩いてゆく。

僕たちはマルコムと同じ視点で、あまりにも頼もしいシーザーの背中を追ってゆくのだ。幕切れ。拍手をしたくなるくらいの名作だ。僕は流れてゆくエンドロールを見ながら、映画のシーンのひとつひとつを思い返しながら、いまだに興奮していた。はじめに発する言葉はもう決まっている。「いやあ、オモシロかった!」

 

作品情報
猿の惑星 : 新世紀(ライジング) / DAWN OF THE PLANET OF THE APES
2014年 アメリカ 131分
監督 : マット・リーヴス
製作総指揮 : マーク・ボンバックトーマス・M・ハメル
脚本 : リック・ジャッファアマンダ、シルヴァーマーク・ボンバック

2014年9月19日より全国ロードショー中
猿の惑星 : 新世紀 公式サイト

続編(!)は2016年夏公開予定とのこと


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2 Comments

  1. はいり

    映画が終わって一言目に「いやあ、オモシロかった」と発した俺に、明確な理由を示してくれてありがとう。

  2. Pingback: MY 10 BEST MOVIES OF 2014 | イモブログ

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