「未だ想像もできないものへの憧憬」、だれかのことばにドキリとすること

「未だ想像もできないものへの憧憬」、だれかのことばにドキリとすること20141011-102300.jpg

あなたをドキリとさせることばはどこからでもやってくる。友人が放ったさりげないひと言かもしれないし、ツイッターのタイムラインの海に漂っているひとつのツイートかもしれない。もしくは街角に貼られた広告のキャッチコピーかもしれないし、ラジオで流れてきた名前も知らないミュージシャンが歌う詞の一部かもしれない。そういうことばたちはいつも突然勝手にあなたの前に現れて、なんの許可もなしに頭の中を占拠してしまう。そのなかにはあるいは刺のようなものが潜んでいて、あなたのことをじわりと傷つけてゆくかもしれない。けれどもいくら取り除こうとしても、それはしばらくそこに居座って動こうとしないのだ。ただ、ドキリとさせられるということは、あなたにとって何かしらの意味があるということは間違いがない。そういうことばに出合えるのは稀だ。そうした出合いがあった折には、取りこぼさないように、逃がさないように、それらをゆっくりと掬いあげて向き合ってゆかなければいけない。

 

ブルキナファソ、ワガドゥグに着いて10日ほど、いつもと変わらぬ茹だるような暑さ。大学の教室にはすこし遅れて到着した。先生は古代の哲学者のことばを読み上げて、数百人の生徒たちに模写させている。その繰り返し。なんて効率のわるい授業なんだと退屈した僕は、おもむろにiPadを取り出して、Kindleのアプリを起動した。母語ではない言語の環境に身を置くと、ひたすらにだれかの知性に母語でふれたくなることがやまやまある。こういう状態だと、本という集合知にいつでもどこでも触れられるKindleなんて便利なものがあると、すこしでも面白そうと直感したものはつぎつぎと購入してしまうのだ。たったワンクリックで本が買えるというのもやはり困ったものだなと思う。

 

恣意的に選んで開いた本のもくじを眺めていると、あとがきのタイトルがふと目に飛び込んでくる。「未だに想像もできないものへの憧憬」。意味を理解する前に、直感的にすてきなことばだと思った。僕はこのことばにきちんとした形で出会いたいがために、授業はそっちのけで本のページを頭から繰り始めた。あとがきのページにすぐに飛んで読んでみたらいいのに。こういう自身の几帳面すぎる性格にしばしばうんざりさせられる。

 

このすてきなタイトルのあとがきが収められているのは、集英社から新書で出ている『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』という本である。内田樹氏とイスラーム研究者中田考氏の対談をまとめた共著。ところで、内田樹の本って、僕がいま罹っているような「一時的知性希求症」の治療には、ぴったりのある意味”お手軽な”知性なのでたまにお世話になっている。Kindleなんかでぱらーっと読むのがいい。というとネガティヴに聞こえるだろうが、彼の仕事の手広さとどこにいっても衰えぬ炯眼には尊敬の念を僕は寄せてはいます。そんなファンでもないけれど、彼の本はいつも面白く読ませてもらっているし。

ここつい最近も「イスラム国」がメディアをにぎわせているように、僕らはイスラーム世界に完全には無関心ではいられない。たとえば僕がいま暮らしているブルキナファソという国も近年のアフリカの例に漏れず急速なイスラム化が進んでいるというのもあって、イスラームについての本が読みたいなあと思っていたのでKindleで見つけた瞬間ぽいと買ってしまった。イスラームに関してはけっこう昔から勉強しようとしていて興味はあるんだけど、なんだか固有名詞がまったく馴染まず、歴史も現状もいろいろなファクターが入り込んでいて複雑なので、いつまでたっても視界が拓けてこないんだよねえ…。

 
しかしこの本のおかげで、わりと近づけた実感はある。イスラームに改宗しカリフ制の復興を唱える中田孝と、ユダヤ教に知見の深い内田樹が、イスラームをはじめとする一神教をベースに、「国民国家」という概念や反グローバリズムについてを起点として、多岐にわたる内容をぺらぺらと語っている。この記事での本の内容に関する詳述は避けるが、対談というよりもおおくが内田樹の持論の披露だったものの、非常に面白い本だったので、興味のある方にはぜひお勧めしたい。
 

そうして時おり、教授が読み上げるソクラテスさんのことばなどに耳を貸しながらも本編を読み終わって、ついに中田孝氏によるあとがきに辿り着く。実際読んでみると、べつにそんなたいしたことは書いていない。個人的にずっとファンで師と仰いでいた内田樹氏と対談ができて光栄だった、彼の著作『先生はえらい』という本はオススメです、「教師」というのは生徒にとって謎に包まれた存在でなければならない、なぜなら生徒の「知を起動するのは、好奇心であり、未だ想像もできないものへの憧憬だからです」

 
あとがきの内容はおわりの挨拶にすぎないものだったが、この最後のことばには確かに含蓄がある。読み終わった本を閉じ、僕はイスラームについてではなく、ぼんやりとこのことばについて考えていた。「未だ想像もできないもの」について考えようとした。取りこぼさないように、逃がさないように。
 

知性に触れたいと願ってこの本を買った僕が、このことばにドキリとさせられたのは必然であるようにも思う。他者の知性にふれるということは、僕にとって「想像もできないもの」を眺めることのできる視座に立つ人たちの知見に出合うということだ。その得体の知れない他人との出合いを欲求するということ。それは、さきの「知性に触れたい」と同義である。

だれかのことばにドキリとする。そもそも、そのこと自体が、「自分では想像すらしていなかった他者の知性との邂逅」なのだ。ドキリとさせられることばは、いつも決まって思わぬところからやってくる。直観的に刺さって、なかなか抜けない。はてどうしたものかと頭を捻って考えているうちに、思考はおもわぬ射程で行われていて、その出合いはじつは偶然ではなく、必然だったのかもしれないと気づくのだ。まったく同じことばにドキリとするとき、しないとき。まったく同じことばにドキリとするひと、しないひと。それぞれにタイミングというものがあって、それが訪れたのはそれだけの資質や理由があったということだろう。

 

いまはまだ想像すらできないもの、僕らはそういったものに恐怖を抱きがちだ。だからこそ、これから先に起こりうるすべてを予測して、「想定の範囲」を超えないように先回りをして未来を建設しようと試みている。得体の知れぬ他者との邂逅をなるべく避け、予定調和の中を生きようとしている。東浩紀が『弱いつながり』で指摘したように、ソーシャルメディアはすでにある他者とのつながりを強固にするためのツールであって、フェイスブックやツイッターのタイムラインはわれわれが予想だにしていなかったことが流れてくることは稀である(けれどもそれは起こりうる)。社会というより大きな単位で切り取っても、ビッグデータ、統計を分析し、みなが未来を予測しようと躍起になっている印象がある。予定調和の数分単位でヒトやモノが移動してゆく。

しかしながら、どんなに想像力をはたらかせようとしたって、世界は人間の想像力ではどうしても届かないことは往々にして起きるのだ。イスラーム世界で起きた「アラブの春」はどの研究者も予測できていなかったという。いったいだれが3.11のような災害を予測できただろう。「想定外の出来事」は確かに、ときに暴力的な形で世界の構造を変えてゆく。射程の長い備えは大事かもしれないが、かといってすべてを想像することなどもともと不可能なのだ。われわれは「想像もできないもの」に恐怖して取り除くのではなく、いつも柔軟にいなければいけない。すべてが予測されている世界はなんとつまらないのだ、とすら思う。
 

「若さ」とは掛け替えのないものだ。僕らが想像すらできない未来が広がっている。僕は10年後、20年後、30年後、「いまはまだ想像すらできないもの」が見えているのだろうか。見えていたらいいな、と純粋に思う。一寸先もわからない人生を歩んだっていいじゃないか。いまの瞬間瞬間ひとつひとつにしっかりと向き合っていればいいのだ。10年後の姿がイメージできる人生ほど退屈なことはない。ぼくはなぜいま、ブルキナファソにいるのだろう。普通だったら、きっといまごろは日本で家族や友人たちと愉しい暮らしを再開しているはずなのに。ときおり弱腰になる自分には、だからこう言い聞かせるのだ。僕は「未だ想像もできないもの」に出合うためにいる。彼らとの邂逅を僕はいつまでも憧憬していようと思うのだ。
 


 

(2014年3月 フランス、トゥルーズにて撮影)


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