美を欲望するということ。Marguerite Kelsey、5月、倫敦

美を欲望するということ。Marguerite Kelsey、5月、倫敦Marguerite Kelsey 1928 by Meredith Frampton 1894-1984

「この絵を僕のものにしたい」とはじめて切望したのは、ロンドンのテート・モダンでMeredith Framptonによる“Marguerite Kelsey” (1928)のポートレイトを目にしたときだった。閉館まであまり時間がない中、美術館の膨大なコレクションをなるたけ多く目にしてやろうという魂胆でわりかし急ぎ足で館内を回っていたのだが、この絵を視た瞬間に足が止まった。それからしばらく、この絵から——あるいは、この絵に描かれたMarguerite Kelseyから——目が離せなくなってしまったのである。

いまでもこの絵をこうして見るたびに美しいと思わずため息を吐いてしまうのだが、なぜとりわけこの絵にかくも惹かれたのかはいまもよく判らないし、いまいち筋の通った説明もできない。なんの芸もない(と言い切ってしまっては失礼だが)、ただの女のポートレイトである。真っ白なワンピースを身にまとった端正な顔立ちの女が、赤いハイヒールを履いたままソファに足を乗せ、額縁の外に視線をやっている。無機質な部屋、壁紙もカーテンもソファもテーブルクロスもすべてがシックな色に纏まっていて、無駄な情報はなにも描かれていない。光の翳りかたから鑑みるに、女の視線の先にはおそらく窓があるのだろう。けれども窓の外になにがあるのかは、女の表情からは読み取ることができない。あるいはなにもないのかもしれない。女の顔からは一切の感情は排除され、おおよそ生命を感じさせるものは引き剥がされ、女はこの絵のなかにただ確固として「存在」し続けている。

美術史的にも特筆すべきことはなにもないように思える。この絵についてはおろか、画家であるMeredith Framptonについても、インターネットでは外国語で調べてもすこしばかりの情報しか手に入れることができなかった。メレディス・フランプトン、1894年、ロンドンに生を受ける。父母ともに芸術家であり、豊穣な文化資本を蓄えながら育ち、ポスト印象主義に根を持ったリアリズムの先駆けとしてキャリアをスタートする。だがすぐにその流れからは外れ、20年代からはシュールレアリズム的なタッチが垣間見えるポートレイトを描く。まさしくこの絵のようなポートレイト。しばらくしてから英国のもっとも歴史のある美術学校であるロイヤル・アカデミーで教鞭を取ることになるが、それからの詳しいことはよくわからなかった。そして1984年に静かに没する。生涯を通じて、あまり作品は残さなかったようだ。すくなくとも「美術史」にこぞって取り上げられるような画家ではない。そんなアーティストはこれまでの歴史で山ほどいるのだろう。

しかし、有名か無名かなんて問題はどうでもよくて、美術史的に特筆に値するかなんてこともどうでもいい。そういうアーティストの作品でさえも、こうして日のあたる場所に安置され、ときおりだれかの足を止めて、凝視させるだけの強度みたいなものがあるのだと考えると、やはり芸術はいいものだなとおもう。周囲の来訪者たちは足早に絵の前を通り過ぎてゆく中、僕にはかように響いたのは、ほんの偶然なのかもしれない。
 
けれど、僕はその偶然に感謝しなければならない——キャンバスの中に存在するMarguerite Kelseyは僕の欲望を途方もなく掻き立て、この絵が欲しいと切に願っている僕自身の姿を発見する。すぐに頭の中では、黒いタイツに身を包んで夜中にこっそりと館内に侵入して盗みを働くというB級映画のような映像が勝手に再生されるも、無言で停止ボタンを押し、そのまま仕方なしに僕はひたすらそこに突っ立ってこの絵画を眺めた。暫くして周囲の客の流れに押されるのに耐えきれなくなって足をすすめたけれど、けっきょく閉館間際にまたこの絵画の前に舞い戻り、残り僅かな時間をMarguerite Kelseyを見つめながら過ごす。

思うに絵画(あるいはアートというべきか)には2種類あって、それと対峙することで言葉が溢れ出してくるものと、言葉が逃げ去ってしまうものがある。どちらがいいとかそういう話ではなくて、ただ性質として僕にはその2つに分別できるように思う。そして、この絵は間違いなく後者に属する。不思議なもので、僕はどうしようもなくこの絵画に惹かれているいっぽうで、この作品を目にするとたちまち僕のもとから言葉が消えていってしまっていた。だから未だに僕は「判らない」し、「説明もできない」。ただそこには美への驚嘆と「所有したい」という欲望のみが残されるのみで、眺めている暫くの間に一切の言葉を介した思考が脳内を駆け巡ることはない。僕は言葉を失ったまま、閉館の時刻を告げる警備員に声を掛けられるまでその場に突っ立っていた。まるで美しい夢を見せてくれていた授業中の居眠に、唐突に先生の咎める声が横入りして一気に現実に引き戻されてくるような感覚だった。夢ごこちから抜け出せぬままふらふらと順路を追って出口に向かう。

ロンドンの滞在日程も限られているのでもう暫く来訪することはないだろう、と別れを惜しみながらテート・モダンを出て、テムズ川沿いをぶらぶらと歩く。するとテムズ川を吹き抜けてくる風に乗るようにして、「絵を所有したい」と欲望することはアートに向き合う上で正しい感情なんだろうという考えがふと頭をよぎった。大文字のArtがはたしていったい何を意味しているのか、不勉強な僕には到底答えることはできないけれど、視覚芸術における〈美〉というひとつの絶対的な概念の存在、そしてそれを欲望すること、それは紛れもなく正しいのだ、そうおもったのだ。

デュシャンが便器を『泉』と銘打って作品として発表した当りをおそらく源泉に持つアンチ・アートという流れが20世紀にあって、それが現代におけるアートへの理解を込み入らせているようなのだが、ここではひとまずそれは棚に上げるとして、それ以前の「アート」とはもしかしたらもっと単純なものかもしれなかった。もちろん、ひとつひとつの美の価値基準はあくまで主観的ではあるが、「絶対的な概念」としての〈美〉の存在は揺るがない。その〈美〉とは、「アート」とメダルの表裏のような関係であって、「アートにおいて必ず存在していなくてはならないもの」と言い切ってしまってもいいかもしれない。

広辞苑で「美」と引くと、「〈哲〉知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの。「快」が生理的・個人的・偶然的・主観的であるのに対して、「美」は個人的利害関心から一応解放され、より普遍的・必然的・客観的・社会的である。」とある。

ここにおける「美」は先程述べた僕の〈美〉の理解に粗方符合しているようで、辞書において「快」と「美」の棲み分けがなされているのが意外だったのだが、これは”Beauty”と”Esthetic”の両者を区別する感覚にすこし似ているなとおもった。どちらも語義は広いので一概には云えないが、アートに関連する語と限定した体で話すと、”Esthetic”という言葉の概念にはどこか「社会的に一定の承認を受けた美」のような基準が入り込んでいる印象がある。いつしかそのふたつの単語の語義のちがいが気になって調べたことがあるのだが、「自然に存在するものを”Beauty”の語をつかって形容することはできるが、”Esthetic”ではできない。”Esthetic”は「ひとの手によってつくられた美しさ」を形容するのに限定された語だ」という説明があって成る程と思ったのを憶えている。

時代や母集団のちがいによって“Esthetic”の基準が異なってくるのは確かであるとおもう。美に対する価値基準が時代が下るたびに変遷してきたのは、歴史がすでに証明している。しかしながら、どの時代の作品を取り上げたとしても、すべてある一定の〈美〉の概念に帰納できる——最大公約数としての〈美〉があるのではないか、とおもった。その〈美〉を決定するのは、あるいは人間にもともと備えられた能力なのかもしれないという暴論すら頭のなかにちらついている。

(アンチ・アートの文脈があるので)なるべく20世紀以降のアートの話はここでは避けたいのだが、たとえば「幼稚園児の絵」と「アブストラクト・アートに系列する絵画」を分けているのは”Esthetic”の基準による〈美〉になるのだとおもう。まったくコンテクストを知らない人間に対して上記の2つの画を提示して気に入ったほうを1つ選び取ってもらうとして、前者を選択するひともいるとおもうが、どの時代/どの母集団においても後者を選択する者のほうが大多数を占めるのではないか、と考えている。これは大変難しい問題で、じゃあその〈美〉っていったい何が決めているのだ、〈美〉の本質とはなんなのだ、というカユいところはここでは掘り下げない(られない)。それは学問としての”Esthetic”(美学・感性学)の領域になるのだろう。こちらも不勉強で恥ずかしい限りだが、できれば近いうちに文献をいくつか当ってみよう。

若干話が逸れた。ともかく5月のロンドンで、「美しいこと」は圧倒的に正しいし、「美しいものを所有したいと願うこと」も正しい欲望の在り方である、という確信めいたアイデアが僕のなかにふと沸き上がってきて、西洋美術、アートに興味を持ち駆け出しはじめた僕にとって一気に視界が拓けたような気がしていたのだった。それはおそらくアートに限らない。「美しい女性を欲望すること」も同じ原理だろう。そう考えるといよいよ〈美〉を賞讃する能力は、人間に生来備わったものなのだという気がしてくる。

いつだったかトルナトーレの新作『鑑定人と顔のない依頼人』を観た。主人公はすぐれた目利きの鑑定人で、多忙な毎日を送っているが、一方で絵画のなかの女性にしか愛を見出すことのできない孤独な老人だ。仕事を終えては自宅へ直帰し、頑丈に鍵が掛けられた秘密の部屋に籠る。そこには、傑作として名の知れた数々の女性のポートレイトのコレクションが並んでいて、老人は椅子に深く腰をかけ、優しい眼差しで絵画の女たちを眺め、静かに日々を過ごすのだった。

ここでは映画の話は省略するが、鑑定人の絵画のなかの女性への愛の姿勢には、すんなりと共感ができるところがあった。なぜなら、絵画のなかの彼女たちの〈美〉は絶対で不変のものだからだ。絵画のなかの彼女たちにすべてを預けても、われわれの眼差しを絶対的に裏切ることはない。そのことは映画の大きなテーマにもなっている。確かに人間と人間の間に交わされる愛ほどの大きな悦びは得られないかもしれない。けれども、すくなくともそこにある〈美〉は美は劣化することはなく、彼女たちはいつまでも永遠の時を刻み続けている。その安心感にわれわれは浸っていられる。絵画には時間が存在しないからこそ、そのなかの登場人物たちが永遠の生を獲得したと言い換えることができるあたりが深遠だなとおもう。

多くの美術愛好家が同時に蒐集家であるのも、ようやく頷ける気がする。かつてはなぜ美術のコレクションなんてコストパフォーマンスのわるいことをするのだ、よっぽど金を持て余しているのだななんて理解に苦しんでいたけれど、僕も“Marguerite Kelsey”が手に入るならば、これほど無上の悦びを与えてくれるものはないなと妄想する。彼らは単に自らの欲望に正直なだけなのだろう。しかしながら、僕が西洋美術に一歩を踏み出す大きな後押しをしてくれた『美術史の物語』の著者であるゴンブリッチは、インタビューで蒐集には興味がないといっていた。美術館で見ることができればそれでよい、と。

富豪にでもならなければオリジナルの蒐集なぞ多くの場合できないのだから、僕は多くの世界中のコレクターたちが欲望を恣にせず、われわれと共有するという形を取ってくれたことに感謝をしなければならない。あまり名の知られていないメレディス・フランプトンのこのポートレイトも、もっと名の知れていない絵の所有者だった誰かが手放してくれたのかななどと想像を巡らす。そして、もし仮に僕が所有者であったとしたら、並大抵のことでは手放そうとしないだろうな、とおもう。だからきっとそうして未だにだれかの手に委ねられ、日の目を浴びることのない絵画はこの世の中にまだ五万とあるのだろう。いまもどこかでだれかと濃密な時間を過ごしているのかもしれない。けれど僕はそうした彼らのことを責めることもできない。なぜならその欲望は、正しくて、否定のしようがないものだからだ。美しいものを手にいれようとすること、彼が自身の欲望と向き合うということは、往々にして他人の目には卑賤に映ってしまうものだけれど。

———つまるところ何が言いたいかというと、アートを賞讃するのに理屈なんて必要なくて、どんな形であれ「美しい」と感ずることができればじゅうぶんなのだ。そして、美しいものを理屈なしに自分のものにしたいという欲望になにも恥じ入ることはないのだ。ということを理屈っぽく捏ねくり回して書いてみたのが今回の文章です。なにも解決した気にならない。僕はまた遥々ロンドンまで、彼女に会いにいかなければいかないなとため息をつく。

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(2014年5月 ロンドンにて撮影)


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