ブルキナ日記 #02|チョコレート・アンド・コーヒー・アンド・シガレッツ

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3枚入りの板チョコを買った。近所にあるちいさな商店で冷蔵庫のなかに見窄らしく隅に追いやられているチョコレートの包みを視界の端に捉えて、そういえばチョコレートなんて贅沢品をこの国に来てからまだ一度も口にしていないなと半ば衝動で手に取った。レジに持っていくとテレビから目を離そうとしない店員に1000フラン(およそ200円)と怠そうに言われて一瞬購入を躊躇うが、そのまま衝動に身を任せて買ってしまった。日本でも板チョコ3枚って同等の200円くらいで買えてしまうよなあと、ずっと長い間放置されていただろう薄汚れたパッケージに納得する。たとえばブルキナファソの隣国のガーナは日本でも「ガーナチョコレート」の名前でお馴染みだけれど、きっとガーナでもここと同じように彼らがチョコレートを食べることは稀なんだろうなと想像してみたりもする。暑さですぐに溶けてしまうチョコレートなんて面倒くさいものはどの商店も取り扱いたくないだろうし、あったとしても諸々の費用がかかるのでどうしても値段が釣り上がってしまう。二次的な加工品ならまだしも、板チョコレートなんてものは一般人にとっては高級品なんだろう。

しかし、と早速1枚目の包装を破り久しぶりのチョコレートを口に運びながら思う、しかし、当の国で暮らす本人たちには手の届かないようなモノが、遠く離れた異国では彼らの国の代名詞になっているというのはおかしな現象だな。異国のひとびとが持つイメージとは往々にして歪曲されているもので実際のそれと釣り合わないことはしばしばだが、かといって「ガーナチョコレート」現象はやっぱり変だ。彼らには手の届かないようなものが、海の向こうでは彼らの代名詞になっているとはなんという皮肉だろう。異国へ出ていったガーナ人はやっぱりどこかで日本人にガーナ人と認識されるなり途端に「チョコレート!」なんて言われているのだろうか。彼らとしては苦笑するしかない。あるひとはそれをいまだ続く植民地支配が生み出した悪害だなどと糾弾するのかもしれない。典型的なモノカルチャー経済って奴だな、と不確かな記憶を手繰り寄せてみる。

チョコレートは不味かった。それも、吃驚するくらいに。こんなに不味い板チョコは初めてだ。むしろシンプルな板チョコってこんなに不味くありうるのか、と二重に吃驚した。1000フランも払ったのになあ。取り敢えずふた欠片を口にしたところで食べるのを辞め、その食べかけの1枚と残りの2枚をまとめて机の上に放置しておいたのだが、数日後に手にとったらヌメリとした感覚があった。チョコレートの油が包装の表面にも浮き出てきていたらしい。うえ、と僕は思わず声をあげてどうしたものかと迷った。このまま食べる気にもならないけれど、捨てるなんてこともしたくない。かといってこれをだれかにあげるのは、僕の特権的な地位に甘えた傲慢なのだろうか。彼らには手の届かないような贅沢品を僕は当たり前に金を出して買って、不味いと判るとたちまち捨てようか、だれかにあげようかなんて考えている。彼らはそんな僕をどう思うだろう。チョコレートに限らずとして、そういうことを考える場面によく遭遇する。僕は学生であろうが、実際のところどうであろうが、「外国人である」というだけで、この国では金持ちとして見られる運命にある。1000フランの不味い板チョコを買えているだけでそうであることには違いはないのだけれど、豪遊トリップをかましている白人たちとはちがうんだよとどこかで抗おうとしている自分がもどかしい。

モノカルチャー経済で思い出したのだけれど、コーヒーが好きな僕は——もともと好きだったんだけれど、フランスは僕をすっかりコーヒー愛好家に変貌させてしまった——ブルキナファソへとやってくる前、現地のコーヒーはどんなものだろうかと僅かばかり楽しみにしていたのだった。ヨーロッパの宗主国はブロック経済の一環でこれまで自作自給で暮らしていたアフリカ諸国に彼らの自作農業の代わりにコーヒー豆の生産を強いて輸出を行い、低価格で彼ら自身が消費するためのコーヒー豆を仕入れ、同時にその貿易によるもうけを自らのものにした。これは中学生レベルの教養だっけ、あるいは高校生だったか。自分もたしかに通ってきたはずなのだが過ぎ去ってみると「○○歳レベルの教養」ってよくわからなくなっているものだ。とかくアフリカのなかでもエチオピアコーヒーは旨いことでそれなりに有名だし、渡航前はブルキナファソのコーヒーの生産状況に関する知見なぞまったく有してはいなかったが、きっとかの国も例に漏れずコーヒー豆の原産地で、きっと安くて旨いコーヒーがあるにちがいない、ああ楽しみだなあなんて阿呆なことを考えていたのである。

いまとなっては暢気すぎたなあと苦笑せざるをえない。コーヒーは確かによく飲まれている。けれど、大抵はインスタントコーヒー、ネスカフェなのである。豆を煎ってという行程を挟むコーヒーを提供している店はほとんど見かけない。むしろコーヒーと言えばネスカフェだと思っている人間はかなりいるんじゃないかなというほどだ。たとえば日本でも商品名である「バンドエイド」が一般の呼称になっているような現象と同じようなものだろうか。「バンドエイド現象」でいうとほかにもブルキナファソでは「ガソリンスタンド」という名詞代わりにだれもが大手ガソリンチェーンである「トータル」と呼んでいる。まあ、確かにガソリンスタンドはトータル以外まだ見たことないんだけど。

この国にはネスカフェならむしろどこにでもある。お店じゃなくても移動式屋台のような感じでグラスにコーヒーを注いでくれるオッサンもちらほら見かける(なぜか彼らはきまって男性なのだ)。僕はアフリカはいまのところブルキナファソしか知らないのでほかの国の事情はわからないのだが、どこもきっと同じようなものなのだろうな。大抵の店は1杯のネスカフェは100フラン(およそ20円)という価格設定。周知の通り、スプーンでネスカフェの缶から粉末を掬って、好みの量の湯を注いでもらってスプーンでかき混ぜるだけのシンプルきわまりない飲み物だ。着いた当初は「20円とは言えインスタントコーヒーなんてだれがお金を払って飲むねん」とがっくりと来ていたのだけれど、いつのまにかネスカフェを飲むという項目が僕の日課のひとつになっている。

すこし休憩しようと思ったら、適当に行き当たったキオスクの日陰に陣取って、「Un Nescafé s’il vous plaît(ネスカフェ1杯)」と声をかける。そして、「お湯はこのくらい?」に「あとほんのすこしだけ」と返すのにもかかわらず「ほんの少し」とは到底形容できないような量の湯を注がれているのに慌てて「ストップ!」と発声するのまで含めて一連の定型となっているやり取りののち、グラスに注がれたコーヒーが目の前にぶっきらぼうに置かれる。角砂糖を2つ入れてスプーンで混ぜながら熱いコーヒーを冷ますのと同時に火照った身体を休ませ、煙草とライターをポケットから取り出し火をつけながら、コップを傾け、不覚にもああ旨いなあ、コーヒーはいいなあなんて思う。しかしなんでこんなに暑い国で好んで熱い飲み物を飲んでいるんだろうといういかにもな疑問がときおり頭をもたげるが、ジム・ジャームッシュ『コーヒー・アンド・シガレット』よろしく「煙草と珈琲は相性バツグン」なのだからなんたって仕方がない。アメリカ帰りのブルキナ人にネスカフェには身体に悪い化学物質がたくさん入っていて云々という話をされようと構わず、おおよそ3日に1日は遭遇する「煙草なんて身体に悪いものお前はなんで吸ってるんだ」という説教を歯牙にもかけず、ネスカフェと煙草という「最悪でバツグンな組み合わせ」を嗜みながら暢気に過ごす日課はなかなか悪いもんじゃない。甘いものが食べたくなって、ここにチョコレートがあったらなおさらいいのになと一瞬あの不味い板チョコのことが頭によぎるが、そんなもの持ち出したら一瞬で溶けて鞄の中が惨事になってしまうなと思い直す。やはり、というべきか、贅沢ばかりはできないのだ。

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(2014年11月 ブルキナファソ, ワガドゥグにて撮影)


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