カフカの〈リアリティ〉に酩酊する(あるいは保坂和志『小説の自由』について)

カフカの〈リアリティ〉に酩酊する(あるいは保坂和志『小説の自由』について)034_32

机のうえに、一塊の大きなパンがあった。父がナイフをもってきて、それを半分に切ろうとした。ところが、ナイフはしっかりしていてよく切れるし、またパンは柔らかすぎも固すぎもしないのに、ナイフの刃がどうしても通らない。ぼくたち子供はびっくりして、父を見あげた。父はこう言った。「おまえたち、なぜ驚くのだね。なにかが成功するほうが、成功しないより、ずっと不思議なことではないのかね。さあ、もうおやすみ。たぶん、なんとかうまくやれると思うから」
 ぼくたちは寝床に入った。しかし、ときおり、夜幾度もまちまちの時刻に、ぼくたちのだれかがベッドのなかで起きなおり、首を伸ばして、父を見た。背の高い父が、いつもの長い上着を着たまま、あいかわらず右脚を前にふんばって、ナイフをパンに突き刺そうとしていた。翌朝早く目をさますと、父がナイフを下においたところだった。「ごらん、まだうまくいっていない、じつに難しいんだ」と言った。ぼくたちは自分が立派なところを見せようとして、自分でやろうとした。父もやらせてくれた。しかしぼくたちは、父が握っていたため把手が灼けるように熱くなっていたナイフを、ほとんど持ち上げることさえできなかった。
(「八つ折り版ノート」、「カフカ全集」第三巻、マックス・ブロート編集、飛鷹節訳、新潮社)

保坂和志『小説の自由』で最後に引用されていた、カフカの小説のこのひとかけらに酩酊した。酩酊という形容がふさわしいかわからないが、それは「衝撃」というのとはちがうし、かといって「感動」なんてものでもないし、「素晴らしい」とか「最高」なんていう単純な響きはもはや受け付けてもくれないし、ほかにもいろいろと言い方を考えてみたけれどどれもしっくりとこない。いくら悩んでもいまの僕からはおそらく適切なことばは出てこないのだろうけれど、自身の貧相な語彙を嘆いていたって何にもならないのでここではひとまず突発的に出てきた「酩酊」ということばを以てしてさきに進もうと思う。

とまれ僕はそのひとページにも満たないカフカの文章を何度も何度も読み返した。読み返すたびに、確かにそこには血管がひらいていくようなリアリティが感じられた。酒に酔うと体温が上昇する、すなわちそれは血管がひらいているということなので、あるいはさきほどの「酩酊」という言葉はわれながら的確だったのかもしれない。いっぽうで頭は明瞭としていて、ひたすらに文頭から文末へ、文末から文頭へと一定のリズムで繰り返し文章を追っていく。その間、いかにして思考の運動がなされたかということを描写するのは非常に難しい。ただひとつはっきりしているのは、僕は文章それ自体に意味を求めようというする指向は——自分でもいささか不思議に思えるのだが——いっさいなかった、ということである。「なぜナイフの刃が通らないのか」、「ナイフの刃が通らないというのは何の隠喩なのだろうか」なんて、いつもだったらすぐに至ってしまうようなある種の批評家的な思考は、まったく起動されることすらなかった。ただただ、それは〈リアル〉に、不可解な強度を保ってそこに存在し続けていた。

もちろんリアルということばは「現実的である」ということが言いたいのではなく、現実をも超してくるような〈リアリティ〉、そういうものが小説のなかから立ち現れてくることがあって、すぐれた小説からは僕たちは時としてそれらを垣間見ることができる。それこそがいちばん保坂和志が『小説の自由』という著作を通じて言いたいことだったと僕は理解しているのだけれど、彼の言葉を借りるならそれは「現前性」とも言い換えられるように思う。

「現前性」とは、たとえば音楽の場合では、「特定の楽器編成によって演奏されている曲」に現出する。ひとつの曲はメロディや音符といった要素に分解でき、またそれらを組み立てることでどこでも再現できる便利さを持ちつつも、たとえば楽器編成が変わったとき、もはやそれは同じものではない。ひとつひとつの「演奏」こそに、「現前性」が宿っている。ベンヤミンのいう「アウラ」という概念と通ずるところがあると僕は思ったのだが、保坂は音楽や美術においては、現前性とは「物質性」とほぼ等式で結ぶことが可能であるとしている。しかし、一方で小説における現前性とは物質的に規定することはできないから、また異なる性質の現前性を持つ。

言葉遣いやセンテンスや長短やテンポは、いったん書き上げた段階でいくらでも直すことができるけれど、文章に込められた要素——つまり情景にこめられた要素——はそういうわけにはいかない。小説にはいったん書き上げたあとに修正可能な要素と不可能な要素があり、修正不可能な要素が小説世界を作る、というか作者の意図をこえて小説をどこかに連れていく。
それが小説における表現=現前性で、文字とは抽象化されたものだから、見た目の印象は小説にとっての現前性ではなく、韻文にあるような響きも小説にとっての現前性ではなく、文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こる。(…)小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ。作者の意見・思想・感慨の類いはどうなるのかといえば、その運動の中にある。
(保坂和志『小説の自由』、中公文庫)

「視線の運動、感覚の運動」。なお、「視線の運動」とは読者が文章を追っていくことによる小説の外側における物理的な視線の運動のことではなく、小説の中に現れる視点の転回や変化のことをいう。著者はこういったことをさまざまな引用をしながら全編を通じて迂回しながらも説いているのだが、冒頭のカフカの文章の断片にこのセオリーを照らし合わせるとどうなるだろうか。

僕がもっとも〈リアル〉に——あるいは、〈現前性〉を——感じたのは、最後の文章だった。最後とはいっても、保坂によって唐突に引用されていただけなので、この文章はこれだけで完結しているものなのか、前後にも物語が綴られていたのか、短編だかなんなのかもわからないし、タイトルだってわからない。もしかしたらタイトルなんてないのかもしれない。

「父が握っていたため把手が灼けるように熱くなっていたナイフを、ほとんど持ち上げることさえできなかった。」

「把手の灼けるような熱さ」を、僕は言葉を追っていただけのはずなのに、いつのまにか手元で把手のその熱が異様なほど〈リアル〉に感じられる錯覚を憶えた。ひょっとすると現実で僕が熱をもった把手を掴んだそのときよりも感覚は〈リアル〉だったかもしれない。その〈リアリティ〉の正体を突き止めようとして、あるいは手放さないように気をつけながら、僕は何度も繰り返して断片を読む。子供たちが父に送る視線。テーブルで父の顔を下から不安そうに見あげ、寝室から薄目をひらいて夢うつつのまま父の背中を眺め、疲弊しきった父の様子を朝見下ろす。父の声。「ナイフ」。映像としていっけんすべてが鮮明に再生されているようで、すべてが記憶のなかに潜んでいるような靄にかすんでいる。思えばすぐれた文章に出合うときはいつも、たしかにそういう二重性がある。

さらに特筆すべきは、主語が「ぼくたち子供」という複数である点だろう。なぜか説明できないのだけれど、「ぼく」はひとりではなく、「ぼく」が複数であるからこそこの短い物語が〈リアリティ〉を伴って立ち上がっているように思えてならない。「ぼくたち」と父。「ぼくたち」とナイフ。「ぼくたち」とパン。「ぼくたち子供」の視線が持つべき複数性が、文章によって対象との関係をあくまでそれぞれひとつに束ねられ、それが「記憶」にあるようなくすんだ色彩を加えている。

保坂和志は『小説の自由』の最終章で、アウグスティヌスの文章をたびたび引用しながら、彼の文章に散見される「言葉のそういう、実体としていきなり起き上がるかのような使い方」こそが、小説を立ち上がらせる力だと言う。これらを読んでいたときは僕は身があまりはいっていなかったように思うが、本の終わりにカフカの文章と出合ってしまったからにはなるほど言い得て妙だなとすとんと腑に落ちた。「実体としていきなり起き上がるかのような文章」、それはなんの媒介も必要としない。ゆっくりと咀嚼する必要すらないのかもしれない。言葉を追っていく過程のなかで、突拍子もなく「実体」が、あるいは〈リアリティ〉が立ち上がり、ぐいと眼前に照射される瞬間があるのだ。

その〈リアリティ〉の立ち上がる瞬間は、たしかにスリリングな瞬間であると同時に、その感覚は容易に他者と共有できるものではない。こういう形で、説明を与えようとしたら逃げていってしまうようなものに言葉を与えようとした保坂の仕事は賞讃すべきものがあるように思う一方で、400ページ以上にわたった彼の論考が、すべてがつながったように思えたのはほかでもなくカフカの短い文章によってである。逆に言えば、この引用がなければ直ぐに保坂の主張など忘れ去っていたかもしれない。

「社会の中では私たちは、(…)選択肢がいろいろに与えられるけれど、社会の向こうにある世界は選択肢など与えてくれず、茫洋としていて手がかりがない。人はその手がかりのなさに耐えなければならない。」
(保坂和志『小説の自由』、中公文庫)

〈リアリティ〉は、小説でなくても、たとえば日常生活においても、その現実を超えた〈リアリティ〉は瞬間は稀に訪れるように思う。大抵はそれを言葉の形に落とし込む前に、彼らは跡形もなく消えさっていて、奇妙な感覚のみが手元に残る。すぐれた小説家は、その〈リアリティ〉を、彼の文章によってこの世界に産出する。ときとして他者のもとにも現前させてしまう。そのスリリングな瞬間を求めるからこそ、われわれは「小説」を必要とするのかもしれない。小説が読みたいな、と思う。

# 追記(2014/11/25)

文章を書き上げてすこししてから、上記のツイートがたまたま僕の目に止まった。botとはいえ、「カフカの〈リアリティ〉」などと(なかば適当に)題した投稿ののちにこんなツイートとはタイムリーだなあと思う。該当の内容は『小説の自由』と重なるものの読んだ記憶がないので、おそらく『小説の自由』の続編2作とやらのどちらかから抜粋された文章だろう。

「カフカのリアリティ」とは「自分に対して世界が次にどういう反応を返してくるかわからないこと」。なるほどなあと頷いた。冒頭のカフカの文章は、われわれの想像力が割って入る隙間を与えない。意味を見いだそうとする、続きを推測しようとする、かようなメタ的想像力はそこではもはや必要とされない。仮にいくら豊穣な想像力を有していようと、すぐれた〈リアリティ〉の前には僕たちはただ圧倒されるしかない、と僕は思う。「想像」を介せずとも「実体」がこちら側へと飛び込んでくるほどの強度のある〈リアリティ〉。それは確かに作家の想像力によって産出されたものであるが、かような〈想像力〉はわれわれがふだん行使している想像力とはまったく性質の異なるものである気がする。すくなくとも、僕はかような〈リアリティ〉を言葉として生み出せたことはいちどもないので、どういう感覚なのかわからないのだけれど。

未来を推測しようとだれもが躍起になっている世の中で、まったく未知なる世界——未だ想像もできないようなもの——が僕たちのなかで立ち上がる瞬間は取りこぼさないようにしなければいけないよね、ということを思ったのを書こうとおもった次第でした。あんまり関係ないけどカフカを原文で読める至福を味わえるドイツ語話者が羨ましい。といいつつドイツ語にはよっぽどのことがない限り手を出すことはないだろうけど。

参考記事

「未だ想像もできないものへの憧憬」、だれかのことばにドキリとすること

(2014年3月、イタリア ヴェネツィアにて撮影)


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