フランツ・カフカ『審判』、あるいは夢のなかで突き立てられるナイフ

フランツ・カフカ『審判』、あるいは夢のなかで突き立てられるナイフf038

ある朝、主人公のヨーゼフ・Kがとつぜん逮捕されるところから物語がはじまる。なんだって冒頭の文章がこの通りなのだ。

“だれかがヨーゼフ・Kを中傷したにちがいなかった。悪いことはなにもしなかったにもかかわらず、ある朝彼は逮捕されたからである。”

朝眼が醒めてベッドでまどろんでいると、突然見知らぬ男たちが彼の自宅にずかずかと入ってくる。横柄な態度をとりながら、「きみは逮捕された」と高らかに宣告してみせるが、ヨーゼフ・Kがなぜ逮捕されたのかと問い詰めても適当にはぐらかされ、やがて「なぜかは知らないが、ただわたしはきみを逮捕するという上からの命令に従っているだけだ」と白状する。比較的重大な罪によって逮捕されたらしいのだが、刑務所に連行されることはなく、いつもどおりの日常を送ることは許されているという。そもそも銀行の業務主任を務めているヨーゼフ・Kには逮捕されるような罪を犯したおぼえはまったくなかった。

後日、つぎの日曜日に審理があるので、きみは出廷しなければならないということを電話で知らされる。ながらも、しぶしぶと日曜日に裁判所に出かけることにしたが、何時に審理が開始されるのかすらわからない。ようやく法廷に着くと、そこにはすでに多数のひとびとが待ち構えていたようだった。予審判事と名乗る男はまず「室内塗装職ですな?」などと頓珍漢な質問を投げかけてくるし、けっきょくだれも何の裁判なのかすら分かっていないようだ。勝ちを確信したヨーゼフ・Kは、演説を始め、群衆に問いかける。しかし、だれしもが「ヨーゼフ・Kは有罪である」ということだけは信じて疑わない。

そうして彼の日常がすこしずつ変容を見せ始める。あちらこちらで見知らぬ人間にとつぜん声を掛けられたと思えばおそるおそると裁判の話についての話をし始めるし、はじめに家に入ってきた男たちが鞭で打たれているところを目撃したり、裁判のことを聞きつけた叔父ははるばる田舎からやってきたり、審理にかけられておきながらかれこれ5年間いまだに開廷されていない商人に出合うなどして、徐々にヨーゼフ・Kは精神的に追い詰められてゆく。仕事に身が入らなくなってきて、いつの間にか、自身の潔白を信じ込むいっぽうで、得体の知れない裁判についてしか考えられなくなってしまう−−−。

たいへん奇妙な小説だ。カフカは、高校生のときに『変身』を読んだ。まあ、『変身』も負けないくらい−−あるいはそれ以上に−−奇妙な小説だ。なんていったって、主人公のグレーゴル君は朝起きたら巨大な虫になっていて、挙げ句の果てには父親から投げつけられたリンゴが背中にめり込んだまま死んでゆく話なのだ。『城』はまだ読んでいないが、大まかにいえば城に呼びつけられておきながら、いつまでたっても城にたどり着けない話だという。保坂和志の本で紹介されていたカフカの短編を読んで、「カフカの〈リアリティ〉」についてもこのあいだブログに書いたが、そういえばあの短編もよく考えてみれば奇妙でしかなかった。ふしぎなことに、その記事を書いたときには奇妙だという印象はほとんど抱かず、現前する〈リアリティ〉にただただ打ちのめされていたのだが。

とここまで書いて、Wikipediaのカフカのページを読んだ。ページトップの概説部分に、「こかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させるような独特の小説作品を残した」とある。なるほど、この奇妙さを「夢」と呼称すると合点がいく。一般的にいえば、「夢」とはさきほどの〈リアリティ〉と対になるべき概念である。いっぽうで、われわれが夢を見ているあいだは、いくらそれが奇妙であっても現実に起きていることだと何の疑いも持たず錯覚してしまっているように(わたしは明晰夢をこれまでいちども見たことがないのだ)、カフカにおける奇妙さは、そうしたリアルさを内包した〈夢〉なのである。

『審判』では、何の裁判かすらもわからないまま物語が進行し、最後には衝撃的な「裁き」が下される。全編をとおして、一切の説明はないまま小説の幕が閉じる。だが、主人公であるヨーゼフ・Kも、いち読者であるわたしとしても、物語が進行するにつれいつのまにか根本的な疑問を投げかけることを辞めてしまっているのだ。それは、目が醒めてから思い返してみると支離滅裂でしかない〈夢〉の有り様とたしかに類似を示している。われわれのみる夢では、いくつかのありえない状況設定が、何の説明も与えられないまま存在し、夢のなかの主人公であるわたしは無条件にそれらを受け入れたまま、物語が進行するという奇妙なことが起きる。すなわち、〈夢〉は〈リアリティ〉と相反するいっぽうで、また同時に〈リアリティ〉を含んでいるという一見矛盾するように思えるふたつの要素を抱えている、ということだ。そして、それこそがカフカの小説なのではないだろうか、とわたしは思うのだ。

話はすこし逸れるのだが、わたしがシュールレアリスムにどうも共感できない理由もそこにあるように思われる。このあいだ足を運んだばかりの国立新美術館のルネ・マグリット展では、彼の作品は「夢的/心的表象である」といった注釈が頻繁に与えられていた(はず)のだが、わたしはどうにも納得がいかなかった。なぜなら単純に、ルネ・マグリットの絵画のような“非現実的な”夢をこれまでいちども見たことがないからだ。すくなくともわたしが夢のなかで視るものはすべて現実的な姿かたちをしていて、目が醒めているときに視覚する風景と何ら変わりがない。さきほど述べたように、いくつかのありえない前提を無条件に受け入れているという点が奇妙なだけである。わたしの想像力や感性が乏しいだけなのかもしれないが、彼の作品は〈夢〉ではなく「現実における悪ふざけ/手遊び」のようにしか思えなかったのだ。

René Magritte, “Le Double Secret”, 1927

閑話休題。『審判』という〈夢〉を見ている最中、すなわち物語を読み進めているときには徐々に疑問を抱かなくなってくること自体がスリルな読書体験だったわけだが、本を閉じたあとにならそうした「奇妙さ」に論理的な説明を与えようとすることができる。

ここで手がかりとなるのは、第九章(副題『大聖堂にて』)でヨーゼフ・Kが出会った教誨師が語る挿話だろう。どうやら、カフカはこの挿話を「掟の門」という題で独立した短編作品として発表していたらしい(『審判』は未完である上、生前中はカフカによって世間に発表されなかった作品だそうだ)。ふたたびWikipediaより挿話の粗筋を引用する(一部を改変)。

“田舎から一人の男がやってきて、掟の門の中へ入ろうとする。掟の門は一人の門番が守っており、今は入れてやれないと言う。また仮に入ったとしても、この先にはべつの力を持った門番たちが待ち受けていると説明する。男は待つことにし、開いたままの門の脇で何年も待ち続ける。その間に男は門番に何度も入れてくれるよう頼み、そのために贈り物をするなどして様々に手を尽くすが、そうするうちにいつしか他の門番のことを忘れ、この門番ひとりが掟の門に入ることを阻んでいるのだという気になる。やがて男の命が尽き、最期に門番に対して、なぜ自分以外の誰も掟の門に入ろうとするものが現れなかったのだろうかと訊くと、この門はお前ひとりのためだけのものだったのだ、と門番は答え、男の息が絶えるのとときを同じくして「さて、門を閉じにゆこう」と言う。”

おそらく読者のだれしもが、この挿話はこの小説そのものについての内容であるとすぐに諒解するはずである。そして教誨師は、ヨーゼフ・Kにこの説話についてのさまざまな解釈を披露する。「男」は門番に騙されていたのではないか、というヨーゼフ・Kに対し、むしろ騙されていたのは「門番」のほうである、というある注釈者による解釈を紹介する。なぜなら、門番は「掟の内部の情景や意義についてはなにも知らず」、「ただそこへ通ずる道を知っている」のみであり、さらには「男ひとりのためだけの門」に束縛され、自由すら得ていないからだ、云々。

この小説の物語に当てはめるとどうなるのだろうか。「田舎からやってきたひとりの男」がヨーゼフ・Kであることは間違いないとして、「門番たち」と「掟」は何の表象だろうか、とわたしはすこし考えた。「門番たち」はヨーゼフ・Kの有罪を主張する裁判所に勤める役人たちや彼の事案に関わるひとびとであるというのは、どうやらそれらしい。「男」が「ほかの門番」にいちども出会わないまま生き絶えてゆくのは、まさしくヨーゼフ・Kが彼の審判を左右する上級役人に出会わなかったという筋と符合するし、彼をとりまくひとびとが、何が起きたのかを知らない様子のまま、ひたすら上から言われた仕事をこなすという点も似ている。すると、「掟」とは〈真実〉ということになるだろうか–––というところで、教誨師とヨーゼフ・Kのあいだでやりとりされた「すべてを真実だと思う必要はないのです。ただそれを必然だと思えばよいのです」「陰気くさい考えですね。嘘が世界の法にされるわけだ」という会話を思い出す。

われわれは、「掟」や「審判」という概念に〈真実〉ということばをつい連想してしまう。しかし、〈掟〉が〈真実〉であるとはどうしていえよう。〈掟〉とは、多くの者にとって都合がいいというだけの恣意的なものにすぎない。だが、それを”必然だと思い込むこと”によってこそ、〈掟〉は絶対的な力を帯び始めるのだ。われわれは、そうして超人間的な〈掟〉を人工的に作り出し、その〈掟〉に自らすすんで従属する。ヨーゼフ・Kは、多くの者が信じ込んでいる〈審判〉に、けっきょく抗うことができなかった。集合的な〈掟〉への信仰は、最終的に〈掟〉が不正であると知っている者からも、それを糾弾する能力を奪い取ってしまったのだった。

こうしてカフカは1912年を迎えるが、これは後にカフカ自身が「あのとき、長い一夜のうちに、はじめて傷口がひらかれた」と書いているとおり、彼にとっては決定的な年となった。カフカがここで傷口と呼んでいるのは、不安であるにほかならない。外部の世界がはいりこんできて、内面の現実を破壊しはしないかという不安であり、この内面の自由が、自分の罪過によって破壊されるのではないかという不安であり、生きうべくして生き得なかった悔恨に対する不安である。

翻訳の辻ひかる氏はこのようにカフカについて記述しているが、『審判』で表現されていることは、まさしく「外部の世界がはいりこんできて、内面の現実を破壊しはしないかという不安」について書かれたものといっていいのではないだろうか。ヨーゼフ・Kはある日とつぜん逮捕され、裁判所へ赴いても、ただ「有罪」であることが言い渡されるだけで、なんなのかわからない。そのことが徐々に彼の自由を奪い、精神を追い詰めてゆく…。これは、ひとつの「罪」を犯したムルソーが、外部的な世界に解体されることによって精神が追い詰められてゆくカミュの『異邦人』のテーマとも符合するかもしれない。

それでは、「外部の世界」とはいったいなんぞや、という核心に迫る問いは、この駄文もいたずらに文字数を重ねてきてしまったので、次回へ見送りたい。わたしのなかでもうまく答えが出ていないのだ。筆を措く前にひとつだけいうとするならば、この『掟の門』に表されるような、カフカのふしぎな世界観を持つ噺が好きでたまらないということだ。門番は次のように男へと語りかけていた。

「そんなに入りたいのなら、わしの禁止にかまわず入って行ってみるがいい。しかし忘れないでもらいたいのだが、わしには力がある。しかもそのわしはいちばん下っぱの門番にすぎない。広間から広間へゆくごとに門番が立っており、その力はつぎつぎに大きくなってゆくのだ。三番目の門番となると、もうその姿は、このわしでさえ恐ろしくて見ていられないくらいなのだ」

僕がカフカに惹かれてしまう訳は、やはりこの科白に集約されるといっていい。門番の持つ〈力〉が、「恐ろしくて見ていられないくらい」と形容されるその奇妙さ。これがカフカにおける〈リアリティ〉だ、と思うのだ。「父が握っていたため把手が灼けるように熱くなっていたナイフを、ほとんど持ち上げることさえできなかった」という一文のような、眼前に鋭く突き出される、あるいは心臓をえぐり取ってくるような鋭利な〈リアリティ〉は、他の作家で見受けられることはすくない。彼の文章における想像力は、悠々と土足でまたいでわれわれの予測を裏切り、気づいたころにはすでにわれわれの身体はナイフで突き刺されている。われわれは、カフカの〈夢〉を見ていたはずなのに、いつのまにか生暖かい血が身体を伝っていることに気づくのである。この肉薄する〈リアリティ〉について、だれかと共有したいと僕は願ういっぽうで、いくら言葉を重ねても完全にわかりあえる気がしない。

とくに、物語の結末がつづられた最後の数ページあるいは数行で受けた僕の衝撃は、どうにもきちんと消化できそうにない。終電で地元の駅に到着し、続きが気になる一心で改札の前で壁にもたれながらページを繰り、一気に読み終わった。読後はただ呆然として、本を静かに閉じるしかなかった。この茫然自失としたこの感覚、世界がゆっくりと色を失い眩んでゆくような、いっぽうでしっかりと手元にはたしかなものが残るようなこの感覚に、僕はいつしか正しい言葉を与えられる日が来るのだろうか。


“「犬のようだ!」と彼は言い、恥辱だけが生き残ってゆくようだった。”

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カフカの〈リアリティ〉に酩酊する(あるいは保坂和志『小説の自由』について)

(2013年5月 東京にて撮影)


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