いま、ふたたび〈変身〉し目醒めるグレゴール・ザムザ(たち)

いま、ふたたび〈変身〉し目醒めるグレゴール・ザムザ(たち)

わたしが『変身』をはじめて読んだのは、高校2年生のときだったと記憶している。それからいちど大学に入ってから再読した。たしかどちらも新潮文庫だった気がするので、おそらく訳者は高橋義孝だろう。調べてみると、どうやらすでにすくなくとも9つもの『変身』の邦訳が世に送り出されているらしく、今回の多和田葉子の新訳で10種類めということになるのだろうか。翻訳は時代が変われば古びてゆくから定期的に手入れが必要だとはいえ、これほどまでに訳されている作品はほかにあるのだろうか−−−と、すこし考えてみて、すぐに「聖書」はきっとたくさんヴァージョンがあるだろうな、と思い当たった。まあ、それは例外として、試しに『星の王子さま』のWikipediaのページをひらいてみると、ゆうに20は越している種類の邦訳が出版されているようだった。たぶん、ほかにも相当数訳されている名作、たくさんあります(すみません)。

文芸誌「すばる」2015年5月号に収録された多和田葉子の手による新訳は、『変身』に「かわりみ」とルビが振られている。なかなか素敵な響きである。なにぶん手元にないので比較のしようがないのだが、高橋義孝訳に比べ、文章が硬くなったという印象はあるものの、読みにくいということはまったくなかった。名訳といってもいいのではないか。

多和田訳のもっともすぐれている点は、一文目に集約されるといっていいだろう。わたしはこの一文目が大好きだ。

「グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。」

インターネットは偉大なもので、すこし検索エンジンを走らせてみるとすぐに書き出しの翻訳を比較している記事を発見した。その記事より最初の文章群を孫引き。

  • “ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。”(カフカ『変身』高橋義孝訳・新潮文庫)
  • “ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から醒めると、ベッドのなかで、ものすごい虫に変わっていた。”(カフカ『ドイツ3・中欧・東欧・イタリア「世界の文学」』城山良彦訳・集英社)
  • “ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。”(カフカ『変身』池内紀訳・白水ブックス)
  • “ある朝、不安な夢から目を覚ますと、グレーゴル・ザムザは、自分がベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた。”(カフカ『変身,掟の前で 他2編』丘沢静也訳・光文社古典新訳文庫)
  • “ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めてみると、ベッドのなかで自分が薄気味悪い虫に変身してしまっているのだった。”(『カフカ・セレクションIII異形/寓意』浅井健二郎訳・ちくま文庫)
  • “ある朝、グレゴール・ザムザが、落ち着かない夢から目ざめてみると、彼は自分がベッドのなかで、大きな毒虫に変わっているのに気がついた。”(『カフカ:世界の文学セレクション36』辻ひかる訳)
  • “ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。”(カフカ『変身』中井正文訳・角川文庫)
  • “ある朝、グレゴール・ザムザがなにか胸騒ぎのする夢からさめると、ベットのなかの自分が一匹のばかでかい毒虫に変わってしまっているのに気がついた。”(カフカ『変身』岩波文庫・山下肇訳)
  • “ある朝、ひどく胸苦しい夢から目がさめると、グレゴール・ザムザは、ベッドの上で自分が一匹の巨大な甲虫に変身していることに気がついた。”(『世界幻想名作集』河出文庫・種村季弘訳)

こうして比較してみると、「複数の夢の反乱の果て」、「ばけもののようなウンゲツィーファー」という訳はきわめて特徴的であることがわかる。とくに、これまで「巨大な虫」「馬鹿でかい虫」「薄気味悪い虫」「大きな毒虫」などと訳されてきた箇所が、「ウンゲツィーファー」と原文であるドイツ語の単語をそのままカタカナにして訳出されている。そのことについて、多和田葉子が短いあとがきに説明を寄せている。

(ウンゲツィーファーは)害虫をさす言葉で、実際にザムザの新しい身体は巨大な甲虫を想い起こさせるので、害虫とか甲虫と訳してもいいが、ウンゲツィーファーという単語の語源を調べてみると、「汚れてしまったので生け贄にできない生き物」という意味があると知った。

ここでは「生け贄」という言葉がキーになる。グレゴール・ザムザは、ある朝目を醒し自分が人間ではないばけもののような何かに変身していることに気づくが、その事実にかんしては驚くほど冷静に受け止め、むしろ彼を悩ませるのは仕事のことばかりだった。出張旅行に朝早く出かけなければいけなかったのに、寝台から動くことすらもできない。これまで5年間いちども欠勤をしたことがなかったのに、なんという失態だろう、と彼は憔悴する。刻一刻と過ぎてゆく時間。仕事を失ってしまったら、だれが父母と妹を養うのだろう。家族のために、なんとしてでも仕事を失うわけにはいかない、なんとか出勤しなければいけないーーーー「ウンゲツィーファー」の醜い姿形(滴る体液!ああキモい!)が仔細に描写されるいっぽうで、変身してしまったことを憂うのではなく、彼の思考はいつまでもそうしたことの周りをぐるぐると旋回する。その様子は滑稽ですらある。

すなわち、 〈変身〉前のグレゴール・ザムザは「生け贄」だったのだーーー「生け贄」という言葉にはいささかネガティヴな響きがふくまれているが、グレゴールは、自らの欲望や願望を殺してまでも、家族という共同体に、ひいては社会という共同体における、ひとつの歯車として機能することこそでアイデンティティを保持していたのだ、ということが浮かび上がってくる。それを「生け贄」と呼称しても支障はあるまい。

仕事だけに生きながらも、その仕事に大したやり甲斐を見出すことができない。現状に退屈してはいても、まずは自分ではなく家族である他者のために自らを犠牲にする。物語中に語られるように、グレゴールは仕事以外になにか趣味があるわけでもなかった。しかし、そのこと自体を不満には思っていない。なぜなら、それが失われたとき、グレゴール・ザムザはもはやグレゴール・ザムザではなくなってしまうからだ。このことは、グレゴールにとってだけでなく、多くの者にとって普遍的な示唆となりうるだろう。惰性で日常を送るサラリーマン、「家族のためだけに働く」という理由はたしかに美しいものかもしれないが、わたしはそんなつまらない人生を送りたくないとどこかで思ってもいる。たしかにアイデンティティは他者との関係性のうちでしか規定されないのだろうが、いっぽうで他者の「生け贄」にまで成り下がってしまうのはいかがなものか、というわたしの中のちいさいけれどしたたかな反抗心を黙らせることができない。

カフカの『変身』とは、他者に頼られること、すなわち共同体において「生け贄」になることで規定されていたグレゴール・ザムザというしがない男のアイデンティティが、「ウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)」に一夜にして〈変身〉してしまうという文学的表象によって、崩壊の一途をたどってしまうという物語だと要約してもいいだろう。

Metamorphosis

Wikipediaに載るほど有名な話のひとつ(あるいはWikipediaに載っているから有名な話、といったほうが正確かしらん)として、カフカ自身が、〈変身〉後のグレゴール・ザムザのすがたを限定しないよう指示としたという話がある。

「『変身』の初版表紙絵は写実画家のオトマール・シュタルケが担当したが、カフカは出版の際、版元のクルト・ヴォルフ社宛の手紙で「昆虫そのものを描いてはいけない」「遠くからでも姿を見せてはいけない」と注文をつけていた。実際に描かれたのは、暗い部屋に通じるドアから顔を覆いながら離れていく若い男の絵である」
Wikipediaより

「ウンゲツィーファーとはなにか?」ということについて、これまでにさまざまな説がささやかれてきた。もちろん、メタフォリックな意味合いにおいてである。一夜にして不能になってしまった、障害を負ってしまった男の人生ーーーそれならば、現代においてウンゲツィーファーの表象は、ロボットであってもいいのではないか? この着想より出発したのが、平田オリザによる『アンドロイド版 変身』だ。ゴールデンウィークの最終日、新しくオープンした早稲田小劇場どらま館のこけら落とし公演として再演されたものを観に行った。

Metamorphose-android-oliza

友人の映画撮影を手伝っていたら長引いたせいで(許せない)10分ほど遅れてしまったので、肝心なはじまりの部分を観れなかった。別日に観に行った友人の談によると、徐々に明るくなる照明のもと、ロボットに〈変身〉したグレゴールがひとりベッドの上で起き上がる、というシーンから始まるらしいのだが、そのあとのグレゴールの科白がいかなるものだったのかはよくわからない。そのあとの家族が発見したときの彼らのファーストリアクションもわからない。エッセンスを見逃した気がして非常に悔しい。

しかし、まず最初に挙げるべきは、演じる俳優陣がまったくもって素晴らしかったということに尽きる。もちろん、ロボットである「リプリーS1」もしかりである。見た目はあきらかなロボットだが、表情がうまくうごいていてよかった。台詞や動きなどもすべてプログラムされたロボットと演技をするというのは、さぞかし大変であったにちがいない。一寸一秒のずれも許されない緊迫した演技が要求されるが、すこしも訝しいところはなく、きわめて自然であった。

今回はフランスの役者たちによる全編フランス語による演劇だったため、字幕に煩わされず個々の演技に集中して観ることができたのはツイていた。しかも、俳優陣が豪華である(らしいことを、後で知った)。『ふたりのベロニカ』で1991年にカンヌで女優賞をとったイレーヌ・ジャコと、その実の夫でありアサイヤスの作品に出演したりしているジェローム・キルシャーが、グレゴールの両親役を務める。妹のグレタに扮していたのは、レティシア・スピガレリという女優だそうだ(かわいい)。

ステージとの距離は非常にちかく、数メートルと離れていなかったので、微細な俳優の表情の動きまでしっかりと見て取れる。しかし、改めて、ひとの身体が動くのを視るという行為はきわめて本能的で直接的な悦びだ、と思った。そして、ときたまおとずれる役者と目が合ったような感覚は、なににもまして刺戟的である。とあるシーンで、演技をしているイレーヌ・ジャコブと目があって、もしかしてわたしの顔が衝撃的すぎて演技を邪魔することにはならないかしらんなどといらぬ心配をしたりした。こういうのは演劇のたのしいところだ。映画のスクリーン上で繰り広げられる物語は、完全に予定調和的であるという安心と退屈があるいっぽうで、同時的に繰り広げられる舞台では、たとえ何百何千回とリハーサルがされていようが、観客は「もしかしたら何か予想だにしないことが起きるかもしれない」という不安と期待を捨てきれない。その緊張感は、演劇ならではである。

さて、途中から観劇したわたしが内容について浅はかなことを書き留めるのを許していただくと、このアンドロイド版においてもっとも原作と異なる点は、(グレゴールから体液は出ず、気持ち悪さが軽減されているということを除けば)彼が〈変身〉後も家族による拒絶を受けず、ロボットの姿でも承認を受けるというところだとわたしは思う。原作では、家族からの拒絶に遭い、最終的に激昂した父から投げつけられたリンゴが甲殻に減り込み、やがて衰弱して死ぬグレゴール・ザムザだが、今作では父、母、妹たちは、グレゴールの変わり果てた姿に困惑し、葛藤を抱えつつも、最後にはロボットとなったグレゴールを受け入れ、愛そうとしていたようにわたしには見えた。

原作では、ずっと面倒を見てくれようとしていた妹のグレタも、最後には「そもそもこんなに長い間、これがグレゴールだって信じ続けたのが、わたしたちの不幸の始まりだと思う。」「もしこれがグレゴールなら自分から家を出て行ったはずでしょう。こんな虫獣が人間といっしょに棲むのは無理だってことグレゴールならすぐに分かったはずでしょう?」なんてもっともな台詞を吐き捨てていたのだが、いっぽうで今作では最後までグレゴールの隣に腰をかけて、愛らしい目線でロボットを見つめる。必死にグレゴールの人間性に賭けようとしている。

そして、物語終盤には、グレゴールは「ねえ、お母さん、ぼくの電源を切ってくれないか」と頼みさえする。家族という共同体のために、自らの命を絶とうとするーーまさしく、真に「生け贄」としてみずからを犠牲にした瞬間ではないだろうか。こう考えてみると、アンドロイド版『演劇』では、「生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫」という意味合いにおける「ウンゲツィーファー」には〈変身〉していなかった、と捉えることができるかもしれない(もちろん、平田オリザがここまで意図していたかは不明ではあるが)。逆説的に、原作においては、グレゴールが「逃げない/自ら命を絶たない」からこそ、「生け贄にできないほど汚れた」という意味を持つ「ウンゲツィーファー」という言葉が活きてくるとも言えるだろう。

わたしは、そうした希望に満ちた−−オプティミスティックな−−展開に驚いた。なぜいま蘇ったグレゴール・ザムザとその家族たちの在り方に、変化が生まれているのか。これはもちろん平田オリザというひとの考えることはもちろんながら、時代の要請ということがあるだろうとは思う。明確にいつの時代とは示されないながらも、現在性の強い背景設定がされている。

物語はグレゴールの寝室から外へと出てゆくことはないので、登場人物の会話から類推するしかないのだが、どうやら遠くで大きな戦争が起きているらしいということがわかる。父は、仕事先のストライキが続き、収入が安定しないことで悩まされている。そういう細かなディテールが至るところに散りばめられていて、おそらくそれだけでも多くのことを語れるだろうと思うが、それらについての考察はここではお預けし、配られたパンフレットのなかに寄せられていた、平田オリザのコメントを引用しながら、主題について話をする。

「『人間は、ある朝、虫になる可能性がある。それほどに人間を人間たらしめている根拠は何もない』
 いま、ロボットの発達によって、「私たちの存在にはなんの根拠もない」という実存主義の主張は、にわかに実証されつつあるように思います。ロボットに関われば関わるほど、ロボットと人間を分ける明確な区分はないと感じるようになります。しかし、人間は人間です。例えば霊長類研究において、DNAレベルでは、ヒトとチンパンジーは、ほとんど変わらないのと同じように、ロボットと人間も、その構造に大差はなく、しかしそこから立ち現れる現象には大きな差異があります。」

アンドロイド版『変身』では、人間とはどのように定義されるのか、「人間性」とはなにか、という主題が原作に比べより前景化していて、そのことは、会話のあちこちに散見される。ロボットに〈変身〉してしまったグレゴールに「人間性」は残されているのか。そうだとしたら、その「人間性」とはいったいなんなのか。

脳神経を専門にしているらしい医者が居候として彼らの家にやってくる。彼は、ロボットを息子だと思い込む両親を精神を患っているのだと思い込む。妹のグレタは、グレゴールの状態と重ね合わせて「脳死」や「植物人間」について質問を彼に矢継ぎ早に投げかけ、彼は丁寧にそれらに医学的見地から回答をする。彼が説明すればするほど、グレゴールを人間だと規定できる可能性は絶たれてゆく。ロボットとなってしまった彼はーー当たり前だがーー生物学・医学的にはもはや人間ではない。しかし、グレタは納得できない。彼女には、このロボットがグレゴールであるという確信めいた直感がある。「じゃあ、心は? 心はどうだっていうの?」

幕切れ、グレゴールは、グレタに「窓を開けてくれないか」と声を掛ける。一瞬戸惑う彼女に「月が見たいんだ」、と。そう、この一言こそが、ここで問われてきた「人間性」への回答ーーグレタの直感、そして平田オリザのいう「ロボットと人間の間に立ち現れる大きな差異」であり、「人間を人間たらしめている根拠」であるひとつの答えだろう。

ロボットとなったグレゴールは、食欲もわかないどころか、時間が経つにつれ、痛みさえもどのような感覚だったかわからないという。しまいには、「電源を抜いてくれないか」と母に頼みこむ、すなわち生への欲望も喪いつつあった。しかし、そこで呟かれたのは、「月が見たい」というひとことだった。それは、きわめて人間的な感情だ。ひとは月を見上げて、その表面に見覚えのある形を見出したり、なにか特別な意味を委ねたり、月には、宇宙にはなにがあるのかと想像をめぐらせたり、同じ月を見上げているかもしれないだれかを想ったりする。月それ自体には、夜闇をひかえめに照らしているという事実しかないし、月を見上げるという行為に、光源を確かめるということ以外には、なんの実際的な根拠はないはずだ(そして、人類はついには月にはなんの生命体も存在しないということを明らかにした)。それでも、ひとは月を見上げ続けてきたし、これからもその行為に、恣意的な意味を付与し続けるだろう。それはまさしく「人間的」なーーこういうとトートロジーになってしまうので、「詩的な」と言い換えてもいいかもしれないーー営みである。

「人間性」、あるいは人間の実存を規定するのは、「詩性」であるというひとつの回答は、ある意味では無責任かもしれないが、たしかに説得力は持っている。このように究極的なかたちで示されると、わたしのもそれに賭けてみたくなってしまうような気がしてしまうのだ。この感覚は、芸術的なーー詩的なーー想像力にしかない訴求力だ。

いまこそ、「人間性」についてわれわれはもっと問わなければならない、と思う。テクノロジーの発展は留まることを知らない。テクノロジーは、もはやわれわれを補完するためではなく、超越するために存在するようになってきた。電子計算機が開発された当初は、計算の早さではソロバンに軍配があがったようなのだが、いまでは人間がとうていできないような計算を一瞬でやってのける。高性能の義足をつけたスプリンターであるオスカー・ピストリウス(殺人容疑で逮捕されたときは、驚いた!)は、通常の人間よりも速く走る。宇野常寛らのパラリンピック構想が記憶に新しいが、もはや機械を装着することがアドバンテージになりうる世界にわたしたちはいま生きている。では、体のパーツをすべて機械に入れ換えてしまったら? あるいは、SFで頻繁に描かれてきたように、ロボットが人間よりも優れた知能をーーさらには、感情をーーを手にしてしまったら? クローン人間は? それらの実現にNOを突きつけるのはナンセンスである。なぜなら、テクノロジーの発展は、さきほども言ったように、止めることができないからだ。ならば、われわれは、それらが実現しうる遠くない未来にむかって、いまからもっと問わなければならない。「人間性」とはなにか? そうした超越した存在にどう向かい合うべきか? その問い続ける営みによってこそ、われわれはその先へと進めるのだ。

しかし、まだ実現していないなにかについて深く問いを発することは思いのほか難しい。わたしたちの大多数は、そのような複雑な思考へと入り込むことができない。わたしはだからこそ、平田オリザによる『変身』の仕事はすばらしいものだと思う。アーティストが、彼らの飛躍力の高い想像力を行使して、われわれにその先の一部を垣間見せてくれる。「問い」を提示してくれる。芸術作品とその「問い」を通じて、われわれも考えてみようとすることができる。わたしがこうしてここでつらつらと文章を書いているように。

『変身』はすばらしい詩的想像力を持った作品だとあらためて思う。わたしだって、これを読んでいるあなただって、明日の朝目醒めたとき、なにかに〈変身〉していることに気づくかもしれない、その可能性はだれにも否定できないのだから。


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