世界に対して、可能性は常にひらかれている − 三宅唱『無言日記/201466』

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三宅唱が2014年、1年かけて日々iPhoneのカメラで彼の日常を撮り収めて66分にまとめた映像作品『無言日記/201466』をユーロライブで観た。上映後には、三宅唱と菊地凛子のトークショーが併催。ちなみに、ぼくは2年ほど前に三宅唱『Playback』を観てとたんに恋に落ちたのだが、もうじきHIPHOPが生まれる瞬間を収めた新作である『THE COCKPIT ザ・コクピット』が公開される。どうやらその公開に合わせたイベントだったらしい(『THE COCKPIT』はほんとうに楽しみだ!)。

へんな話だが、『無言日記/201466』を観て、わたしははじめてよくわかっていなかった量子力学の可能性の概念が腑に落ちたような気がする(量子力学についてはほんとうに素人なので、もしなにか間違いがあればやさしく指摘してほしい)。というか、この間聞いたばかりの量子力学の話をたちどころに思い出した。

というのは、世界に対して、可能性は常にひらかれているということだ。量子力学において、とりわけ理解に難い概念がある。ふつうは、時間やキョリといった要素を方程式に代入すると、「答え」が算出される。その方法をもちいることで、われわれはなにが起きるのか、ということを予測することが可能になってくる。いっぽうで、量子力学の始祖であるシュレディンガー氏が定式化した方程式に、量子レベルの実験における変数を代入して算出すると、ふしぎなことに方程式は「可能性」しか返してこないらしいのだ。しかしながら、そこに観測者が存在するとき、その実験において多様に広がる可能性はすべて捨てられ、たったひとつの結果に収斂される(もうすこしややこしい話のようなのだが、このことは有名な「二重スリット」問題に代表されるので、興味のある方は各自ググってください)。

『無言日記』を観たとき、わたしはいまいち理解していなかったこの概念をふと思い出したのである。世界に対して、可能性は常にひらかれている。しかし、対象を観測するときーーすなわち、対象にカメラを向けるとき、すべての可能性はたったひとつの現実に収斂するのだ、と。

タイトルに冠されているとおり、観察者(三宅唱)は無言でたんたんと日常をカメラに収めているだけだが、この特殊な作品には、さまざまな日常の断片的なシーンが並べられている。

まず、街角、交差点。とくに、交差点は可能性の宝庫だ。すべての道から、あるいはどこか思いも寄らない場所から、トラックやタクシー、乗用車、自転車、小学生、サラリーマン、主婦、よくわからない者たちといった、ありとあらゆるものが登場しうる。トークショーでも語られていたが、ひとつとくに印象に残っているシーンがある。一本の細い路地に引越しのトラックが停まっていて、そこにやってくるべつのトラックの前を、引越しのお兄さんがいまにも崩れんばかりのダンボールの山を抱えて横切る。一時停車したトラックは、お兄さんが横切ったのを見計らってふたたび進み、路地に交わるべつの小道に右折を試みるが、すぐにふたたび停車する。なにかと思っていると赤いパーカーを着た青年が自転車に乗ってすごい勢いで飛び出し、さらにすこしの間をおいてまた続いてべつの赤いパーカーを着た青年が自転車で飛び出してくる。トラックはようやく再度進行し、無事に右折をしてフレームアウトしてゆく。

まさかふたりも赤いパーカーを着た青年が自転車に乗って飛び出してくるとは、だれが思っただろう? あのシーンには思わずクスりとさせられた。世界に、可能性はつねに大きくひらかれている。「われわれが予期できない何か」は、つねに可能性として浮遊し、現実に顔を出そうと機を見計らって控えている。それが表出した瞬間をとらえたシーンだった。

あるいは、幾度も繰り返された、移動するモノに乗り窓からカメラを外に向けるカット。それは電車であったり、新幹線であったり(ドイツのTGVであったり)、バスであったり、車であったり、はたまた飛行機であったりするのだが、これも同じことが当てはまるように思う。固定されているカメラよりも、高速度で移動するカメラにとって、つぎの瞬間になにが眼前に広がるのかということは予測しにくい。たとえ大抵の場合、変哲のない光景がその先に広がっているとしても、まったく劇的な変化が訪れるかもしれないという可能性は、つねに潜んでいる。

2、3度挿入されていたスポーツ中継も同じだろう。野球だって、サッカーだって、いかなるスポーツであろうと、いくらデータを収集して武装したとしても、けっきょくのところボールがどこに飛んでゆくのか、バットにボールは当たるのか、セーフかアウトか、そしてゲームの勝ち負けといったことは、完全に予測することはできず、ただ可能性として存在することしかできない。いくらデータ上は強い選手がいたとしても、負ける可能性はつねにある。その不確定性に委ねられているところに、スポーツの面白さがあるといってもいいだろう。

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そしてなによりも象徴的な存在は、やはり猫だ。猫は、これでもかというくらい66分間のうちになんども出てきた。どうやら三宅唱がよく通る道のある場所に、いつも屯している猫2匹がいるらしい。その猫たちのシーンのたびに、笑みが漏れてしまう。つぎの瞬間、何をしでかすかまったく予期できない猫という存在。猫における可能性は、放射状にかつ無限にひろがっているような錯覚すら憶える。カメラを凝視していたかと思うと、突然そっぽを向いて駆け出す。もう一匹の猫とにらみ合っていたかと思えば、つぎの日には二匹仲よく並んで昼寝をしている。この世に猫の方程式というものがあったとしたら、ほかの動物以上に多様で満遍のない可能性群が返されるにちがいないーーだからこそわれわれはかほどまで猫という存在に惹かれるのかもしれない、と思った。

いっぽうで、このように、たとえ可能性が無数に存在するといえども、じっさいに現実において起こるのは、そのうちのたったひとつでしかありえない。カメラの向こうに起きたことは、いくら多くの事柄を予感させていようが、たったひとつしかないのである。

ゲストとして招待されていた菊地凛子が、わたしがここまで書いたことと正反対(に見えるような)ことを言っていたのが印象的だった。正確には覚えていないのだけれど、「この映画を観て、信号とかコンビニとかそういったものが、ずっと変わらずにそこにあるんだなって思えてよかった」といった旨ことだったと思う。わたしは基本的には彼女の考えに同意である。そして、このことは可能性が無限に広がっていることと矛盾しない。

わたしたちの日常は、「大抵のことはなにも変わらないだろう」という安心の上に立脚している。脈絡もなく家が爆撃されるなんてハリウッド映画みたいなことはまずないし、最寄駅に帰ったら辺り一帯が知らぬ間に更地になっていたなんてこともまずない・・・はずだ(そう信じたい)。もちろん、可能性として完全に捨て去ることはできないーーー朝目覚めたら突然ウンゲツィーファーになっているかもしれないし、実際にある日突然ビルに飛行機が突っ込んできたこともあった。とくに、3.11以降はこの前提が成り立たなくなったと考えるべきかもしれない。これまで続いてきた終わりなき日常は、一瞬にしてすべてを奪われてしまったのだから。しかしながら、かようなことが起こる可能性は限りなく低いといっていいだろう。大抵の場合は、一昨日も昨日も今日も、眼前には変わらぬ光景が広がっている。そのことを、わたしたちは経験的に知っているし、その安心感のもとに、わたしたちの暮らしは成り立っている。

三宅唱が構えたカメラに収められたすべての映像のうちにおいて、「なにか面白いことが起きた」パターンは「何も起きなかった」パターンよりはるかに少ないに違いない。フレームの奥に位置するあたかも可能性を含んでいそうな街角からも、けっきょく予期せぬものはなにも曲がってこないことがほとんどだ。けれども、ふとしたとき、その安心の広がるの日常のなかに、無限の可能性が潜んでいることに気づく。その「予期せぬもの」にどこかで期待を寄せ、そしてそれが表出したときそれを驚きをともなって迎えいる。その繰り返しで日常は象られてゆく。ときたま何かに出合えた瞬間は、ひどく美しい。わたしはカメラを持って街を歩くのが好きで、そのたびによく思うのだが、日常というのは、撮ろうとする意志を持って接しているだけで、劇的なくらいに異なる様相を呈してくる。すこしアンテナを張ってみるだけで、すぐに見慣れた日常のひとつひとつのシーンに、無数の可能性が潜んでいるのが発見できるのだ。

トークショーで、三宅唱の作家性は「普遍的なもの」と「新しいもの」というふたつを同時に撮ろうとする姿勢だ、ということに言及されていたが、この『無言日記』でもまさしく、日常のなかに「変わらないもの/予期されるもの」(=安心)と「変わってゆくもの/予期されないもの」(=驚き) の二極のものがきちんと横たわっていることに正面から向き合っていたような印象を受けた。

世界に対して可能性は無数にひろがっているが、その可能性は、大抵の場合、驚きをもたらさないひとつに収斂されてゆく。現実はひとつしかない。ひとつひとつの瞬間に、すべての可能性は切り落とされ、ひとつの時間という線をもって連綿とつながってゆく。カメラは、そのことをたんたんと収めてゆく。それは、ある意味快感でもあった。日常にひそむその両義性に、ふたたび気付かされたのである。

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この三宅唱『無言日記』でもっともわたしが好感を持ったのは、自分自身の生活のドキュメントではなく、あくまで彼が世界に対してまなざしを向けている点だ。このことがなければ、この作品はかほどまで面白いものになっていなかっただろうと思う。実際に、トークショーでも彼は自身のことについて「記録フェチ」ではない、過去のドキュメントにはなんの興味もないということを言っていてわたしは非常に納得させられたのだ。

毎日1秒ずつカメラを回して、それをつなぎ合わせたヴィデオをいくつか観たことがある。いま流行っているのかどうかはいまいちわからないが、幾人かの知人がフェイスブックやインスタグラムにそうしたヴィデオを挙げていた。ただ、彼らのヴィデオはたいてい面白くない。なぜか? それは、個人の日常あるいは現実に対して定立している誇張されたドキュメントでしかないからだ。興味関心が、世界に対してひらかれているのではなく、あくまで自分へと、あるいは自分の日常をいかに他者へと誇示するかということに閉じられているからだ、わたしはそう思う。

1年間幾度にわたり三宅唱がiPhoneのカメラを回す瞬間を目撃してきたという彼のプロデューサーは、「ときどきカメラを回しはじめたものの「あ、ここは良すぎるからダメだ」などといって撮るのを辞めてしまう」といっていた。この感覚はすごくよくわかる。日常をいかに撮り方で脚色するかということばかりに頭を悩ますとき、いまある出来ごとにわたしたちは「すでにある現実」しか料理することができない。すでに「出来上がった日常」に対してカメラを向けても、可能性は閉ざされているのだ。なんども繰り返しになってしまうが、全方位から何かが起きるかわからないという淡い予感、なにも出来上がっていない日常にこそ、そこから始まるドラマをわたしたちは見出すことができるーーーこれは多かれ少なかれ、だれもが共有している感覚ではないだろうか。だからこそ『無言日記』がだれにとっても面白いのだ、と思う。

「皆んなにもパクってほしい、『無言日記』をやってほしい、見るのが大好きだから」と三宅唱はいう。自分のドキュメントにしない、世界に対して可能性がひらかれているように、世界とその可能性に対してまなざしを向けるということをきちんと肝に銘じておけば、だれの『無言日記』だって面白くなりうるはずだ。近ごろ映画監督を目指している友人が呪詛のように繰り返している是枝裕和に掛けられたという言葉を思い出す。「君の自意識を撮ろうとしたって何も面白くないし、誰も興味がない。むしろ、社会を撮ろうとするべきだ。そこには必ずきみの感性が反映されてゆくから」。わたしはたくさんのひとの『無言日記』が溢れたらとても面白いだろうなと思う。たしかにそこには似たような光景が広がっているだろうが、まったく同じではありえない。世界は無数の可能性に満ちているし、無数のまなざしによって見つめられているのだから。

さて、ぼくも『無言日記』撮ろうかな。まずはスマホすら持っていないのでどうにかしないとだけれど。その前に、中途半端に手がつけられただけのブルキナファソで撮った動画をまとめなければ、と思っているのだが、ここのところまったく進展がみられない・・・。


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