『ザ・トライブ』〈視る〉こと、〈触れる〉ことーー辺境に立たされた者たち

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『ザ・トライブ』を観た。去年のカンヌ映画祭の批評家週間に新人監督が撮ったすさまじいウクライナ映画があるらしいという評判は聞きつけて以来気になっていたので(去年はカンヌに遊びにいっていたのだが日程が合わず断念した)、一年越しにようやく観れたというところ。ちなみに、ユーロスペースのトイレで吉田大八が隣で小便していた。トイレで小便していることまでだれかのブログに書かれてしまうというのは、有名人は気の毒だなあと思う。本人の名誉のため付けくわえると、『紙の月』は余り好きではなかったけれどわたしはいちファンです。応援しています。

閑話休題。

「この映画の言語は〈手話〉である。いかなる吹き替えも字幕も存在しない」と高々に宣言され、この作品ははじまる。おそらくこれは世界で初の試みだーーー音楽もない、台詞もない、あるのはわれわれが意味を推測するしかない〈手話〉だけの長編フィクションだ。 映画に登場するのは、ほとんどがろう者に限られる。わたしにとって、まったく新しい映画的体験、映画的冒険であった。そして同時に、鋭利な物語の強度を持ち合わせている傑作だったと思う。

そもそも、「手話が喧しい」だなんて、これまでいちども考えたことすらなかった。スクリーンで繰り広げられる手話の「おしゃべり」は、非常に騒々しいーーーもちろんだれひとりとして口から声を発しているわけではない。しかしながら、それは「沈黙」とは形容しがたい。だれもがひたすらに手を動かして、なにかを相手に伝えようとしている。当たり前だが、それはふつうのオーラルコミュニケーションにおける目的となんら異なる点はない。始業式のようなセレモニーが終わったあとに連なってゆく学生たちの思い思いの会話。校舎の裏で行われた決闘を観るために屯する野次馬たち。話している内容がわからずとも、「声」や「話し方」という要素を鑑みるだけで個人の性格というものは大抵わかってしまうものだが、手話における「話し方」にも性格は色濃く反応するのだな、とはじめて気づかされた。

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一緒に映画を観た友人は、「〈手話〉でのみの会話によって意味の取れない鑑賞者としての私たちは排され、より明確に鑑賞者であることを意識させられた」という旨のことを言っていたが、だからこそわたしは余計に彼らを<視よう>としていた、と思う。彼らが絶え間なく繰り広げてゆく手話に、何らかの理解できる意味を見いだそうと躍起になっていた。どこか見覚えのある手話のかたちに、仔細な変化が認められる表情に、腕や身体の筋肉やその動きに、そうしたすべてにまなざしをいつもより一層注意深く向けたのだ。わたしは鑑賞中に、行為をそのまま放っておくのではなく、そこに含まれる意味をなんとしても探ろうとする人間的な運動がなんだか滑稽に思えて笑えたりしたのだが、いっぽうで、手話話者にとって相手を〈視る〉というのは、通常よりも遥かに重要な意味を帯びるのだとも思った。これは看過できない点だ。

わたしたちは、耳が聞こえている、耳を介して音声情報が入っているからこそ、相手を視ようとせずともコミュニケーションを成しおおせる。ふだんのささいな会話のなかで、どれだけ相手のことを視ているだろう?  家族や親しい友人など親密な関係ができあがっている場合は?  コンビニの店員など赤の他人の場合は?

そのことから、次のことが導ける。われわれのコミュニケーションはーーハンディキャップを持たない者たちを、「われわれ」という主語を据え置いて語ることに少々気が引けてしまうのだが、ここでは便宜上許してほしいーーあるいは他者との関係性は、ある種〈視すぎない〉からこそうまく成り立っているのではないか、ということだ。ふだんの会話について思索を巡らせてもあまり実感は沸かないかもしれない。だが、落ち込んでいるとき、腹が立っているとき(喧嘩しているとき)、われわれは相手のことをきちんと〈視ている〉だろうか?

他者とのコミュニケーションにおいて、われわれは他者を〈視ない〉という能動的選択を適宜取り入れることによってこそ、円滑に関係性を維持できているという側面があるのではないだろうか。いや、ちがうな。むしろ、〈視ない〉という能動的選択をしたとしても、コミュニケーションが完全に「断絶」されることはないからこそ(視ずとも声を介した音声情報によってコミュニケーションは続けられる)、関係性を維持できているというべきだろう。

そして、〈視る〉ことと並立して語られるべきは、〈触れる〉ことについてである。われわれはだれかの気を引くときに、たとえばたまたま街角で知人を見かけたときには、声を上げて自らの存在を認知させようとする。そこにたとえある一定の距離があったしても、相手の視界に入っていなかったとしても、われわれは〈音〉によって、だれかと交信することが可能だ。

しかし、その〈音〉が聞こえなかったとしたら。視覚のあとに来るのは、触覚である。明後日の方向を向いている者の注意深くを引くには、相手に触れなければならない。濱口竜介『不気味なものの肌に触れる』で描かれた、他者に触れるという禁忌は、『ザ・トライブ』においてはやすやすと破られている。ろう者の女学生ふたりが、寮のベッドにふたりで並んで座り、激しい喧嘩をするシーンがある。もちろん、手話によるものなのだが、彼女たちは、激しい身振りを以って感情のぶつけ合いを繰り広げる。徐々にヒートアップする彼女たちは、途中でひとりが相手を〈視ない〉という選択を主体的にすることによって、コミュニケーションの拒絶を試みる。手話における会話の場合、相手を〈視な〉ければ、コミュニケーションをもう続行することが不可能になる。すると、すぐにそうはさせまいともう一方から鋭い一撃が飛ぶーーー彼女は、まちがいなく痛みを伴った一撃を相手に与えること、触覚に訴えることによって、相手にこちらを〈視る〉ことを要請する、すなわちコミュニケーションの続行を暴力によって要求するのだ。

このように、『ザ・トライブ』において描かれたろう者たちのコミュニケーションは、他者を〈視る〉こと、〈触れる〉ことを過剰に要請されることにより、必然的に過激性を帯びてしまうのである。

ろう者学校に転校生である主人公がやってきたとき、素行の悪そうな男子学生たちは彼をまず校舎裏に連れて行き、服を脱がし、彼の隆々とした筋肉を点検するかのようにひとつひとつ触れた。手話によって会話が行われているので、その行為の正確な意味は推し量るしかないのだが、わたしには、彼らの仲間うちにいれるか否かの儀式のようなものに見えた。

さらに、そのあとのシーンでは「決闘」が行われる。転校生はいまいち呑み込めていない様子のまま、複数の少年たちが彼に殴りかかってゆくーーー主人公はそれに応酬し、圧倒的な腕っぷしの強さを野次馬たちにも示す。こうして主人公は、正式にこの不良少年グループへの加盟が認められたのである。以上の点は、身体を出発にした〈視る〉そして〈触れる〉ことを基盤にして、彼らの共同体が成り立っているということの証左だといえるだろう。そして彼らは、昼は学校の敷地内で下級生たちを虐め、夜は学校寮を抜け出し、悪事を働く。道ゆく人を複数で襲い、身刮ぎすべてを剥がし盗る。そこには、つねに暴力が介在している。

いっぽうで、彼らと仲のいいろう者の少女たちは、毎晩身体を売って金を稼いでいる。何度も何度も繰り返される、長距離トラックの停留所で売春をおこなうシーン。ふしぎなことに、彼女たちはまったくもって嫌悪感も良心の呵責も感じていないようだった。あっけらかんと露出の高い服に着替え、いつものように笑い、ただのルーチンワークかのように、見知らぬトラックの男たちに犯され金を稼ぐ。彼女たちの行為と態度は理解しがたいように思えるが、これもろう者である彼女たちにとって、そもそも〈触れる〉ことの禁忌が破られているからこそ、見知らぬ者との性的接触においても嫌悪感をあまり感じないということではないだろうか。

以上に見てきたように、〈触れる〉禁忌を持たぬ者は、簡単に一線を越えてしまう。そして、〈視る〉ことを要請された者は、見たくないものまでも過剰に視てしまう。そのことで彼らのコミュニケーションはエクストリーム性を帯びた暴力が含まれ、やがて関係性は破滅へと導かれていってしまうのである。

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この映画でもうひとつ特記すべきは、さきほども少し述べたが、ろう者以外の存在が、映画から徹底的に排除されているということだ。物語の大半は、ろう者の特別学校の敷地内で繰り広げられる。そこから出ていき、幾度かろう者でない他者がカメラに収められることもあるが、彼らの声は観客にすらまったく届かないように作られている(例外がひとつあるのだが、これについては後述する)。冒頭のバス停のシーンでは、バスを待つ人々の存在は、その前の絶え間ない車通りによって完全に観客と遮断されているし、一度警察に赴いたときも、口が動いているのは見えるが窓ガラスによって断絶されている。売春に興じるバスの運転手たちは、不気味なくらいに声を発しない。

このろう者たちと、そうでないものの断絶は、あるいはまさに現実で起きていることを描写しているのかもしれない。いかにバリアフリーの社会が称揚されようとも、ハンディキャップを持つ者たちは、それだけで社会のマージナルなところに追いやられてしまいがちである。日本では、このあいだ初めてろうの女性が市議会議員になったというニュースがあったが、徐々に改善されつつあるとはいえ(本当にそうなのだろうか?)、依然として社会のなかで辺境に立たされることが多いのは事実だろうと思う。

さきほど、〈視る〉ことの要請、〈触れる〉禁忌の侵犯によって、彼らの関係性のうちには、頻繁に暴力を伴った過激性を帯びたコミュニケーションが噴出してしまう、ということを書いたが、同時に、この「辺境性」もまた、彼らのうちの暴力性へと帰結されてしまっているのかもしれない。

社会におけるカオスを、いかにして処理すべくかというのは人類が原始的な共同体を形成していたころからずっと向き合ってきた命題だ。ハンディキャップを持つ者を、社会のなかでいかに位置づけるか。彼らは過剰の神話的な意味を付与され、畏怖の対象であることもしばしばであった。いかなる方法であれ、ある種マージナライズドされてきた、辺境へと追いやられてきたのは事実だろう。そして、辺境に立たされることによって、彼らは社会に噴出するカオスの捌け口となってしまう、カオスを負わされてしまうーー彼らに対する差別的な言説あるいは空気をつくることは、すなわちカオスを押し付けることでもあるーーそして、その〈カオス〉は、辺境に立たされているハンディキャップを持つ者たちが形成する小さな共同体において、外に捌け出すことができずに内部でますます濃度を増し、ついには暴力の形をもって噴出してしまうのだ。

ろう者であることによって、辺境に立たされることを余儀なくされ、〈カオス〉を負わされ、すべてが過激化し、暴力に帰結してしまうーーーその暴力は、ときに社会そのものへ向いてゆく。障がい者の犯罪を描いた柴田剛『おそいひと』という映画をかつて観たことがあるが、彼らはたしかに加害者であるのだが、じつはそれ以前に被害者なのだ。社会の抑圧が、〈辺境性〉が、彼らの暴力を生み出した。

また、「辺境」ということでいえば、ロシアの〈辺境〉としてのウクライナという、障がい者についてと同じ構造が、そこに見てとれるかもしれない。『ザ・トライブ』において唯一、他者の〈声〉が聞こえるシーンがある。それは、イタリア大使館の前で、イタリアへのビザ取得にひとびとが並んでいるシーンだ。売春をおこなう女子たちがこのことは非常に象徴的だと思う。

ロシアの辺境であることを余儀なくさせられているウクライナにとって、イタリアないしはEU諸国は、さらに〈外側〉であるが、いっぽうでべつの〈中心〉でもある。ろう者学校の授業において、EUの地図を用いて先生が授業していたシーンや、イタリア旅行の土産を買って帰国したひとが登場するなど、そのことは幾度かこの映画に盛り込まれているといえるだろう。〈辺境〉で苦しむ者にとって、本来の〈中心〉とはべつのところに〈中心〉があると認知すること、そしてそちらへと逃避を試みることは、彼らの負う〈カオス〉を一気に清算する起死回生打になりうるかもしれないのだ。

この映画が、〈辺境性〉について取り扱っているという意味合で、『ザ・トライブ』というタイトルは大変すぐれていると思った。”Tribe”、すなわち「部族」。いま、ほかに意味はあるのかと思って辞書を引くと、「植民地時代の先住民に対する白人の態度を思い起こさせる語」と註がある。西欧の〈中心〉主義とつねにその辺境として捉えられた非-西欧の構図のなかで用いられた語のようだが、これはまさしく『ザ・トライブ』における、ロシアの〈辺境〉で「トライブ」を形成するウクライナ、そして社会の〈辺境〉で「トライブ」を形成するろう者たちという構図と類似を示している。登場人物たちは、二重の〈辺境〉性のうちで、〈中心〉から排出されたた〈カオス〉が、過激な暴力となって表出してしまう「トライブ」を形成している、と簡潔にまとめてもよいだろう。

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▶︎ このシーンの強度は、たいへん大きなものだった。はじめて強く彼女は〈声〉を出す。それは、痛みに対応する叫びなのだ。

しかし、彼らは”Tribe”を抜け出すことは叶わなかった。パスポートは切り裂かれ、関係性は完全に破綻してしまう。衝撃的なラストシーンは、〈カオス〉が最大の形で噴出してしまったと言い換えることもできよう。その結末に、わたしは言葉を失い、物音が聞こえてくるだけのエンドロールに眺めていた。そして確信する、傑作だ!と。

さいごに撮影に関してもすこし付言すると、これまではずっと「階段を下りる」シーンを中心に撮られていたにもかかわらず、最後にはじめて、主人公が「階段を上る」シーンが撮られている。なにか悪い結末を予感させる緊張感のあるショットだった。2.35:1のワイド比率が功を奏し、とても美しいシーンもいくつかあった。列挙していくこともできたのだが、わたしは「カメラ」については映画を語るときどちらかといえば含まれないほうがよいと思っているので、ここでは見送りたい。

もはや口癖のようになっているが、芸術作品はわれわれに思わぬ方位への想像力を与えてくれるすばらしい営みだ。〈辺境〉に立たされているかもしれない「彼ら」のことを、〈中心〉に居座る者にどう認知させ、考えさせるか?  わたしは、物語にするという形がやはりもっとも訴求力を持っていると信じている。すくなくとも、ここでわたしがつらつらと綴ってきたことは、『ザ・トライブ』がなければ思索すらされなかったかもしれないという事実が、その証左であるだろう。


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