雑記( August, 2015 )

雑記( August, 2015 )二年ぶりに東京で迎えた夏は、早くも終りつつある。すでに秋の風が吹いている(どちらかというと台風の風というほうがふさわしいかもしれない)。八月の頭の連日のうだるような暑さにはほんとうに辟易とし、そのなかをゆくリクルートスーツに身を包んだ就活生を見るたびに戦慄していたのだが、いざその夏が終わりかけてみるとやはりどこかに一抹の寂寥が残る。先日の呑みの席で先輩から「春夏秋冬のうち、夏だけが終わる」と言われて膝を叩きまくったのだが、はたして夏というのはいったい何なのだろうか。考えてみると、ほかの季節に比べても、夏を代理表象するかのようなものごとはこの世にあふれている。花火、浴衣、海、プール、BBQ……あとは……なんだろうか……。夏の類型を片っ端から列挙してゆくつもりで筆を走らせたのに、これしか思い浮かばなかった自分に苛立ちすら覚えています。そして、いうまでもなく、これらの眩しきイベントごとにはほとんど縁のない静かな八月を過ごしました。べつにそれら類型を消費しなければいけないという義務もなにも負っていないはずなのに、なぜこうも満ち足りなさを憶えてしまうのだろうか。僕の心が弱いだけかもしれない、といいつつも、どこかでまた次の夏に期待を寄せてしまってもいる。まったく罪な季節である。

しかし、八月には例年のごとく僕も心待ちにしているイベントがあって、それはほかでもない甲子園である。高校野球のすばらしさについてはむかしつらつらと駄文を綴ったことがあるのだが、二年ぶりに観た高校球児たちのひと夏の夢も、相変わらずの眩しき輝きを放っていた。以前も書いたことなのだが、高校を卒業して以来、すなわち、球児たちよりも年令が高くなってしまったとき以来、あの球児たちへのまなざしの性質はあきらかに変わってしまった。そこには、僕自身の可能的青春への憧憬と悔恨が内包されるようになったのだ。あるいは、彼らの日本一という夢に向けてひた向きに走りつづける様子は、僕にとってもあり得た青春の一頁だったかもしれない(甲子園の土を踏めたとはまったく思っていないが、すくなくとも、あの場所を目指して全身全霊を込め野球に励んだ高校時代というものはありえたはずだ)。しかし、その青くさい青春は、僕のもとにはもう二度と訪れない。かたや、いまの僕はただクーラーのよくきいた部屋で、肌着を身につけ、オレンジジュースを片手にソファーに寝転んで、テレビの前で高校生たちの奮闘を目に「オー」とか「ワー」とか喚き散らしているだけなのである。そして、たとえば数十年後も、オレンジジュースがビールに代わっていることを除けば、なにひとつ同じ様相で甲子園を観戦しているかもしれない。そのことは安心感というよりも恐怖感のようなものを与えてくる。

野球といえば、相変わらずプロ野球観戦にも興じていた。いったい僕はどれだけ野球を観ているんだ、という自己ツッコミをいれながらも、昼は高校野球、夜はプロ野球の試合観戦という夢のような夏休みを2週間ばかし送った。八月は阪神タイガースの試合を二試合、東京ドームと甲子園で観戦したのだが、どちらも敗戦を喫したので余りいい思い出はない。ことしは4度も野球場に足を運んでいるのに、いまだ六甲颪をうたっていないことにこの世の不条理をつよく感じている。阪神、セ・リーグの首位のチームのはずなのになあ。しかし、残り試合もすくなくなってきた中で、危ないながらも首位をキープしていることには素直に喜ぶべきだろう。10年越しの悲願の日本一をめざしてこのまま頑張ってほしい。とくに、ピッチャーがつぎつぎと夏バテしてゆくなかで、藤浪君はほんとうに頑張っている。彼は頭もよろしいようで、三年目ながらもヒーローインタビューの受け答えもしっかりしているし、頼れる同世代(1個下…)だ。これからも怪我をせずに日本球界を代表するピッチャーになってほしい。とりあえず九月いっぱいは変わらずプロ野球観戦に熱を上げることができる。ほんとう四六時中野球の試合やってればいいのにと思うことが多々ありますが、そうなってしまったら十中八九僕は廃人になってしまう気がするので、これくらいがちょうどいいんだろう。ひい。

あとはなにをしていたかな。七月はレポート等々で忙しく、映画館にいく暇があまりなかったので、その反動もあって、八月は映画はけっこう観た。と、思って改めて数えてみたらそうでもなかった。新作映画でいうと、月間ベストは『ジュラシック・ワールド』とタナダユキ『ロマンス』かな。何度か友人と深夜に新宿でレイトショーを観て、終わったあとに歩いて彼の家まで帰るということをしたのが記憶に残っている。『ミニオンズ』はかわいいし、『進撃の巨人』の石原さとみさんはもっとかわいい(後者、映画自体はクソです)。『ミッション・インポッシブル』新作にはたいへん失望させられた。『BORUTO』も観たけど、最高に金と時間を返してくれ映画であった。わざわざ『NARUTO』の漫画も全巻読んだのに。

新宿にロイ・アンダーソン特集のオールナイトにも行った。僕にとって、ロイ・アンダーソンはすばらしき催眠映画を撮る監督です。彼に匹敵する催眠映画作家として、ジャック・タチの名を挙げたい(『プレイタイム』は、4度めくらいの鑑賞でやっと最後まで観れた)。エナジー・ドリンクで身体を強制的に目醒めさせながら『散歩する惑星』『愛おしき隣人』を鑑賞したのだが、画面にたいする完璧主義な働きかけという点では、ジャック・タチと重なるところがある。画面から「ノイズ」が取り除かれたとき、たちまちわれわれは睡魔に襲われる、そんな仮説をひそかに立てた。そのあとに観にいった『さよなら、人類』はあまり好きではなかったし、睡眠十分でいったはずがやはり眠気を覚えた。画面にたいするセンスということであれば、早稲田松竹で特集が組まれていたアレクセイ・ゲルマンが圧倒的でしょう。彼はむしろ画面に過剰に「ノイズ」を配置してゆく天才です。『フルスタリョフ、車よ!』における、いたるところでさまざまのものが同時に運動している様子を、自身も運動しているカメラは捉えたり、逃したりする。スクリーン上に(あるいはスクリーンの外に)踊りゆく情報量たるや、もはやひとり人間にはすべてを把握することはできないほどなのだが、その中心を力強いストーリーが貫通してゆくさまは観ていて快感ですらある。いったいどうやってつくったのか皆目見当もつかない。『神々のたそがれ』はまだ観れていないので、大いに楽しみにしている。

ことしの夏も岡山の山奥にある親せきの家に帰省のようなものをした。僕が畳に寝転がって本を読んでいると、その隣を九歳の従甥と四歳の従姪が駆けてゆく。読書よりも彼らと遊ぶほうが圧倒的に楽しいので、本をほっぽりだして、中庭で野球ごっこをしたり、レゴで遊んだり、お絵かきをしたりしながら大いに癒やされる。子どもはかわいい。来年もまた大きくなった姿を見せてくれるのが楽しみでしかない。それでもずっと彼らと遊んでいるわけでもないので、田舎にいるあいだは、インターネットにもつながっていないし、本を読むなどしていた。そのあと京都に数日間滞在しているあいだも、特に観光をせず読書にふけっていた。かの京大の吉田寮に学外のひとでも泊まれるらしいということを友人からきいて、あのカオスな空間にしばらく沈みこんだのだけど、すごい体験でした。僕が寝ているかたわらで、知らないひとたちが深夜3時から麻雀を打つ音がきこえてくる。四六時中プレステ4のゲームをやっているひとがいる。この空間が学生による自治で100年もつづいてきたことにはただただ驚嘆するしかない。一泊二百円でだれでも泊まれるようです。潔癖性の方にはおすすめしません。

八月に、ブルキナファソで強盗に盗られたSONYのコンデジ、RX-100 IIIをふたたび購入したので、また写真にたいする興味が復活してきている。しばらく暗室にもはいっていないが、もうすこし写真と向き合う時間がふえてもいいのかな。写真といえば、大阪でウォルフガング・ティルマンス展に足を運んだりした。被写体のなにもかもを作品へと昇華し、それらを全体として構成してゆく力量には脱帽するばかりである。

八月に読んだ本のなかでは、小説でいうと、友人から勧めてもらった『高慢と偏見』が最高に愉快でした。最初はなんだこのつまらない話はと思っていたが、だんだんドラッグのようにキマってくる喜劇的な恋愛小説である。200年も前に描かれたただの色恋沙汰に、エリザベスやジェーンの恋のゆくえに、これほど胸を打つのだという事実にまず驚く。短編集『マイ・ロスト・シティー』(村上春樹訳)、フィッツジェラルドが初期に著した『氷の宮殿』に、なぜだかおそろしく感動した。あの荒削りな歪さにどうしようもなく心が奪われてしまう。ああ、サリー・キャロルのため息の魅力といったら。

思想書でいうと、卒論のアイデアを膨らますためにもフーコーをいくつか齧ったりしていた。僕のゼミの先生は夏休みにも授業を行うという暴挙を臆面もなくしていて、八月はニーチェを扱ったりした。『道徳の系譜』はニーチェのなかでも抜群に読み易い本ではないだろうか。なにより彼のつむぐ文章は、頭に残りやすい。

”人間の意志は一つの目標を必要とするものだということ、ーー何も意欲しないよりは、虚無を意欲することを望むものだということである。ーーわたしの言いたいことが理解していただけるだろうか?……伝わっただろうか? 先生、まったくわかりません! ーーでは最初から始めるとしよう。”

ニーチェ大先生(!)は、この著作ではアフォリズムではなく論文形式を採り、比較的わかりやすく彼の思想を示しているのだが、彼の文章のクセーー頭がよすぎる余りに、自己を俯瞰しすぎてしまう点ーーは、くどいのだが、読んでいてだんだん快感に思えてくる。それでいえばまさしくいま読んでいるドストエフスキー『地下室の手記』にいたっては紛れもなくケッサクで、腹をなんども抱えて笑ってしまうくらいの自己言及っぷりは、ニーチェをさらにこじらせた感じがする。これがまたある意味ではナボコフあたりに継承されていったのだろうか、 なんて文学の系譜を考えはじめるとまたおもしろい。

文学の系譜、系譜、日本の近代文学というのは僕はぜんぜん読んでいなくて、たいへん恥ずかしながら、川端康成『伊豆の踊子』なんかをはじめてよんだ。『伊豆の踊子』の冒頭の一文には、もうほんとうにうっとりします。短い一文のなかで、主語がめまぐるしく変わってゆきながら、きわめて日本的な情景がまぶたの裏に浮かぶ。こんな文章は一生かかっても書けない。あまりに好きすぎて、散歩しながらよく諳んじています。はあ、なんてすばらしいんだ。

”道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。”

さて、いちど書き始めたらこのままどこまででも書き連ねてしまいそうなので、そろそろ筆を措こう。ああ、そのまえに、安保法案をめぐる動向には、例に漏れず僕もたいへん気を揉んでいるという話だけ。さすがに8月30日の国会前安保法案反対デモには足を運んでみたかったのだが、京都にいたのであえなく断念(京都のデモは散発しているという印象でけっきょくいかなかった)。五輪の競技場やエンブレムの云々はもはや喜劇となってしまったが、ニュースを見ていても、新聞を読んでいても、気にやむことばかりだ。ときおり友人たちと政治のはなしをしますが、僕としてはもっといろいろと話したい気持ちです。ただこういう市民レベルの「熟議」の声が果たして耳を塞ぎっぱなしの安倍ちゃんに届くのか、と考えると暗澹たる気分になる。川内原発も動き始めてしまったし、僕は政治については悲観的にならざるをえないなあ。その暗い気持ちを、野球を見て、本でも読んだりして、なんとか紛らわす八月でした。さいわい、大学生には九月の終わりまで夏休みが与えられているので、もうすこし気晴らしをしてゆきたい。友人の方々はいっしょに遊んでくださいまし。雨にも負けず、風にも負けず、晩夏の寂しさにも負けず、先行きの暗さにも負けず、読売ジャイアンツにも負けず、日々がんばってゆきたい所存であります。おわり。

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(2015/08、新宿にて撮影)


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