『マイ・インターン』――交差する男性性/女性性

『マイ・インターン』――交差する男性性/女性性The-Intern-12

『マイ・インターン』を観た。いまも熱狂的な人気を誇っている『プラダを着た悪魔』の実質的な続編といわれているためか、映画館の客の入りはものすごかった。レディース・デーだったからかもしれないが、女性客かカップルばかり。あの環境のなか男性だけで観るのはなかなか勇気のいることだろうと思うので、全国の男性諸君はだれか女性をさそっていってください。映画としても、男性性と女性性についての映画であることは明白であり、また、女性は社会のなかでいかにして仕事と家庭を両立できるのか? という2015年においてかなりホットなテーマを扱っている。そのミューズとしてのアン・ハサウェイは、ファッションのベンチャーの社長としてバリバリ働いている。そして、このテーマを扱うにあたって、構造的に非常に面白いのは、この仕事のデキまくる、男性を寄せ付けないようなアン・ハサウェイに影響を与えてゆくのが、「シニア・インターンシップ」の一環として、たまたま働くことになった70歳のロバート・デニーロということだろう。70歳の男性という社会から引退した存在が、いまのばりばりのベンチャーの女社長の生活に寄り添ってゆくという構造をとおして、この映画がマスキュリニティ/フェミニティの問題について、ひとつのモデルを提示できるのではないかと、密かどころではなく期待を寄せていた。

 

はじめは、ロバートデニーロが、中性的な地点から、男女の性差のあいだに切り込んでくる流れかと思っていたのだが、じつはまったくちがって、むしろマスキュリニティのイデア的存在としてデニーロが君臨していた。僕の映画遍歴だとこのようなデニーロの役柄にはあまり見覚えがなかったのである意味新鮮だった(デニーロの演ずる男性的表象の系譜をたどっていくと面白いかもしれない)。いっぽうで、会社に勤めている男性たちは、ナヨナヨとしたいかにもな草食系男子たちか、ギークなデブか、ゲイっぽさがはかとなく漂う上司しか登場しない。どれも一般的な「紳士」だとはいいがたい。そこに妙齢の紳士であるデニーロが登場することで、はじめは疎まれながらも、徐々に職場の男性からも女性からも慕われてゆく。

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やはりマスキュリニティの顕示が、一般的には男女のゲームの盤上からは外れた老人から行われているというところがミソなのだろう。だからこそ、そのマスキュリニティに、われわれは嫌悪感を抱くこともなく、すんなりと敬慕の情を示すことができる。なぜかといえば、単純に、デニーロはそもそもほかの男たちにとっての敵ではないからだ(デニーロはけっきょくマッサージ師とデキてしまうのだが、もしマッサージ師に片思いをしている妙齢の男性が物語に登場していたら、デニーロのキャラクターに憎悪のこもったまなざしを向けていたにちがいない)。その意味で、昨今男性性が失われつつあるのは、ほかの男性たちとの関係性において、共同体のなかの一員として、波を立てたくないという自己防衛に基づくものであるといえるかもしれない。男性性をみずから手放すことによって、共同体内での他者との共存をはかる。その背景には、共同体における女性の台頭がある。男女性差がいまよりも大きかったころ、男性がみずからのマスキュリニティを顕示することでヒエラルキーの上位層に入り込むことは、実質的なメリットがあった。しかし、なんのしがらみも伝統もないベンチャーという新しい風が舞う空間において(しかも女性が社長なのだ)、男性性を手放すという戦略をとったほうがいいことは容易に理解されうる。しかし、一義的にもいえないんだよなあ。アン・ハサウェイがギークなメガネ男子たちを前にして、酔った勢いで自身の理想のジェントルマンな男性像をつらつらと開陳してゆくシーンについてはどう捉えればよいのか、僕はいまいち決めかねている。アン・ハサウェイの語りを牽制したのは、デニーロであるというところに象徴されるなにかがあるのかもしれないが、あのシーンはどうも中途半端な印象しか受けなかった。

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けっきょくのところ、この映画が性差についてのいまこの時代にとっての新たな回答やモデルを提示したとはいいがたい。アン・ハサウェイが抱える家庭と仕事の両立問題は、けっきょくなにも本質的なことは解決されることはないまま、「気持ちの持ちよう次第ではどうにでもなるよね!」という表面的な処方が示されるだけであった。そもそも、アン・ハサウェイが、物語がはじまった時点で、結婚して子供もいる状態であるというのは、ある種の逃げであろう。そのことは途中で明らかになるのだが、「おいおい、夫も子供もいるのかよ」とおもわず突っ込みをいれたのはきっと僕だけではあるまい。もちろん、そこから描き始めたらば物語自体がややこしくなってしまうし、それが描きたかったことではなかったというのは承知しているのだが、現代の若い女性がいちばん知りたいのはその点なのではないか。この前提があったうえで、「仕事を取るか、家庭を取るか」という選択に直面するというのはすこしずるいではないか。彼女はすでに仕事も家庭も、ある一定の成功を納めているのだから。むしろ「仕事をとったら、今後家庭をもつことをあきらめなければいけないのかもしれない」という悩んでいるひとのほうが圧倒的に多いのではないだろうか。

 

ともかく、アン・ハサウェイは、仕事を追求するという自分の夢を半分あきらめて、なかば崩壊ぎみにあった家庭をなんとか取り戻そうとする決断をした矢先、デニーロは、彼女に「私は仕事をしている君が好きだし尊敬しているのだから仕事を取ったほうがいい」というなんの本質的な解決ももたらさないメッセージを伝える。そのことばを聞きたがっていたアン・ハサウェイは、家庭をあきらめ、仕事を選ぶことにする。すると、浮気をしていたはずの夫が改心し、彼女を支えてゆくことを(オフィスで!)抱き合いながら誓うという、なんとも楽観的な結末を迎えている。けっきょくデニーロが登場したことで変わったのは、デスクがきれいになってハッピーくらいのものではないのか、と思ってしまうのだが。あるいはもしかすると、アン・ハサウェイがもともと持っている理想の男性像を体現しているデニーロだからこそ、彼女の抑圧された願いを解放することができたのだ、ということなのか。そんな映画はいやだ。はじめに期待していたマスキュリニティ/フェミニティの問題は、解決されることのないまま幕を閉じてしまったのだ。

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そういう意味では至極残念であったが、映画としてはわりに面白かった。しっかりと作り込まれている印象を受けるし、なによりデニーロが最高なのだ。こんな「格好いい爺さん」になりたいと多くの男性が思うことだろうし、こんな「格好いい爺さん」が身近にいてほしいと多くの女性は願うであろう。もうね、僕はさいきん涙もろいのか、「妻に数年前に先立たれたことで空いてしまった穴をどうにか外に出て、社会に溶け込むことで埋めようとしている。社会の外皮はどんどんと変わってゆくなかで、私自身もまた変わらなければいけない」という冒頭のデニーロの下りだけで涙がほおをつたいそうになっていました。いい顔しているよなあ、デニーロ。もちろんアン・ハサウェイも好きだけれど。10年後くらいにふたたび、アン・ハサウェイを主人公において、『プラダを着た悪魔』『マイ・インターン』の続編をつくったら面白いかもしれない。10年後、デニーロもちょこっと出てくれるくらいに健在であったら嬉しい。ふたりのコンビネーションはなかなか感動的であった。とかく、この映画がマスキュリニティとフェミニティについて考えさせるような内容であったことはまちがいがないし、さいきんはいろいろとそのことについてよく考える。映画でも、小説でも、この映画が届かなかったことを成しえているような、作品にふれたいと思っているので、だれかおすすめがあったら教えてください。


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