「英国の夢 ラファエル前派展」――饒舌な物語、リアルのなかのロマンス

「英国の夢 ラファエル前派展」――饒舌な物語、リアルのなかのロマンスDSC00684

「リバプール国立美術館所蔵――英国の夢 ラファエル前派展」にいってきました。Bunkamura ザ・ミュージアムにて。映画や演劇を観にBunkamuraに足を踏み入れるたびに思うのだけれど、この場所にいるひとたちは、渋谷の路上でのたまう烏合の衆の大半とは、明らかに異なる階層に属している。Bunkamuraに集う上品な身なりをした妙齢の紳士淑女が、すぐ隣にあるドン・キホーテのスウェットとクロックススタイルのヤンキーと同種の生きものである、という紛れもない事実に、どこか反発を覚えている自分がいることを告白しなければらならない。

 

さておき、「ラファエル前派展」。ラファエル前派の作品をまとまって鑑賞したのはこれが初めてかもしれない。どうやら2年くらい前にも、東京では森アーツセンターギャラリーでラファエル前派展がひらかれていたらしい。このときはロンドンのテート美術館の所蔵作品を中心に来日していた、とある。ちょうど2年くらい前、僕はロンドンを旅行する機会に恵まれたのだが、テート・モダンの方はひととおり回ったものの、テート・ブリテンのほうまで足を伸ばす時間がなかった。「ラファエル前派」の作品にかぎっても、今回のリヴァプール美術館所蔵作品より、テート・ブリテンのほうが著名な作品が多いようだ。つぎにロンドンを訪れることがあったらゆっくり時間をとってテート・ブリテンも回ろう、と心に決めた。行きたい場所が多すぎて困るのはこの世の常ですね。はあ。

 

「ラファエル前派」のラファエルとは、ルネサンスの大画家であるラファエロのことを指しているのだけれど、簡単に言えば、「ラファエル前派」は、ラファエロをディスり、ラファエロ以前に回帰せよと唱えた一派のことである。19世紀半ばのイギリス、ロイヤル・アカデミーの学生であったロセッティ、ホルマン・ハント、ミレイの3名の前途洋々の優秀な画家たちは、「近頃の芸術はなぜこんなにダメなのか」と思いあぐねた結果、「諸悪の根源はラファエロにあるにちがいない」と思うに至った。当時、古典偏重のアカデミーのなかで巨匠として崇められていたラファエロこそが、自然を理想化し、現実のありのままの姿を無視してタブローのなかでだけ美を追求する、というふうに、西洋美術を「悪しき方向」に導いてしまった、というのである。したがってわれわれは「ラファエロ以前」の芸術、すなわち中世の芸術に回帰するべきである、という思想のもと彼らは作品を創作する。運動自体は大きなものではなく、彼らの共闘もわずかな期間で終わってしまう。しかし、のちの19世紀末の象徴主義に繋がっていくなど、それ以降の美術へ波及した影響は大きいとみられている。

 

しかし、僕はかねてより不思議に思っていたのだが、「ラファエル前派」というのは、美術史のなかで眺めると、どうも中途半端な芸術運動ではないだろうか(個人的に好きなのだけれど)。というのも、彼らは「自然をあるがままに描く」とリアリズムを標榜しているいっぽうで、描かれているのは、「中世への回帰」を謳っていることからもわかるように、ギリシア神話や聖書、中世の文学の一シーンといったロマン主義的なものばかりだからだ。つまり、絵画の方法としてはリアリズムを取りながらも、絵画の主題としてはロマンティズムが中心に横たわっているのである。つまり、そのふたつの相反するべき理念が、ひとつのタブローのなかで折衷されているような、そんな稀有な芸術なのだ―――と、僕は勝手に思っているのだが、この理解は正しいといえるのだろうか? いや、そもそも方法と内容というのは理念のレベルにおいて対立し合うものでもないのだろうか。よくわからない。

他方、すこし時期を後にしてフランスで起こった印象派は、「自然をあるがままに捉える」リアリズムを目指していたものの、ラファエル前派と異なり、方法のみならず主題の領域においてもリアリズムを徹底したかたちで発展した、と言えるかもしれない。また、先ほど書いたように、「ラファエル前派は象徴主義の前触れとなった」というということなのだけど、これはすなわち――臆せずにさらに推測を進めるが――ラファエル前派は、その方法的リアリズムの側面だけ骨抜きにされたかたちで、主題的側面のロマンティズムが拡大し、のちに世紀末の象徴主義につながった、ということではないか。実際のところ、方法的リアリズムは、象徴主義においてかなり崩されていて、ラファエル前派の影響は、おそらく部分的にはあるにせよ、直接的な影響があるとは僕にはあまり思えない。とすると、はたしていったいなんのためのラファエル前派の理念だったのか。若いときから間違った美術界を立て直すと息巻いていた彼らが不憫に思えてならない。まあ、すくなくとも「ラファエル前派」は今日において高い評価を受けているわけで、わたしたちは世紀を跨って彼らの生み出した作品に触れることができるのだ。やー、しかし、西洋美術は楽しいね(ミーハー)。ところで、以上の僕の素人理解、間違っているところがあれば、ぜひともご指摘願いたいです。

 

 

「ラファエル前派展」では、リヴァプール美術館から来日した65点の作品が展示されており、これらの作品は〈ヴィクトリア朝のロマン主義者たち〉〈古代世界を描いた画家たち〉〈戸外の情景〉〈19世紀後半の象徴主義者たち〉という4章に分けられ展示されている。わりとこじんまりしているので、1、2時間あれば十分に回れるかな。僕はオーディオガイド(キャプションに書いてあることとほぼ同じことを解説していたのであまり意味をなさなかった)を借りて、1時間半くらいかかっただろうか。会期がはじまってすぐの祝日に行ったので、けっこうひとは入っていたほうなのかもしれないが、落ち着いて回れました。そのなかで、いくつか好きな作品/作家があったので紹介したい。

(c) Walker Art Gallery; Supplied by The Public Catalogue Foundation

John Everett Millais, 《良い決心》, 1877.

John Everett Millais, 《巣》, 1887.

John Everett Millais, 《巣》, 1887.

 

展示室はいってすぐのところには、ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)の作品がいくつか置かれている。もうね、この女性たちのまなざしをひとめ見た瞬間、僕の心は完全に奪われてしまっていた。凛としてしとやかに佇む美しい女たち、そんな彼女たちの目を見るだけで、その淑やかさの奥に潜んでいる芯の強さに気づき、打ちのめされてしまう。この強さを前にしてしまっては、僕はたちまち無力になってしまうのだ。しかもタイトルが《良い決心》って、ちょっと最高すぎやしませんか。とうてい彼女には敵いそうにない。

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John Everett Millais, 《ブラック・ブランズウィッカーズの兵士》, 1860.

 

この作品もまたミレイの手によるものなのだが、いったい何度驚きを持ってこの絵を見ただろうか。女性が身にまとっている白いドレスを見てほしい! この質感! インターネットの大海から拾ってきたこの画像でもこの精巧さなのだから、本物は凄いのだろうと考えているでしょう。じっさい、本当に凄いのです。おもわず僕は絵画に触ってしまいそうになり、慌てて手を引っ込め、かわりに顔を近づけれるだけ近づけてまじまじと見た。何度も見た。このリアリティは本当に筆舌に尽くしがたい、油彩でここまで表現できるのか、という驚きと感動。そして絵の全体をとっても、ビビッドな色のバランスがいい。兵士の軍服の黒と、女性のドレスの白のコントラストが画面の中央を占めている。そして背景の緑に、補色である鮮やかなリボンの赤の眩しさが非常に素晴らしい効果を視覚に与えてくれる。

しかし、壁にはダヴィッドのナポレオン像が飾られているのだけど、ミレイ自身は、ダヴィッドのことをどう考えていたのか? 自分の作品のなかに登場させるということは、普通に考えてリスペクトを示しているということだと思うのだけど、ラファエル前派と新古典主義はどういう関係にあったのかよく分からない。新古典主義じたいは、ラファエロを称揚していなかったか? つまり理念でいえばラファエル前派と新古典主義は対立するはずである。だが、おそらくはラファエル前派のほうが実際はそこまで厳密なものでなかったのだろう。想像するに、ミレイをはじめとする若き画家たちは、とにもかくにも当時のルネサンス古典至上主義のアカデミーのカタい雰囲気が好きではなかった。とりあえずその風潮に反旗を翻すため、アンチ・ラファエロという、講師陣を憤慨させるような判りやすいテーゼを掲げた、という程度のものだったのではないだろうか。ただの想像でしかないけれど。

 

ほかにもミレイの作品はいくつかあって、どれもがすばらしい作品であった。どの作品においても描かれた女性は目が印象的で、とても美しいのだ。2年前にはあの《オフィーリア》もテート・ブリテンから来日していたそう。本物が見たかった、やはりロンドンまで会いに行くしかないのだろうか(ところで、つい先日樹木希林がミレイの《オフィーリア》に扮した画像が話題になっていましたね)。

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ダニエル・マクリース《祈りの後のマデライン》, 1868.

 

ダニエル・マクリース《祈りの後のマデライン》。ジョン・キーツの『聖アグネス祭前夜』という1820年の詩から引用された一シーン。マデラインが祈りを終え、眠ろうかというとき、恋人であるポーフィロが彼女と駆け落ちをしようと苦境をくぐり抜けて彼女の部屋までたどり着き、いまちょうどクローゼットに隠れている場面らしい。絵のなかにはクローゼットらしきものは見当たらないので、どうやらわれわれの視線がすなわちポーフィロの視線であるのではないか、とされている。マデラインの俯いているその表情といい、夕陽に照らされた豊饒な赤髪といい、彼女は奇跡的な美しさを湛えている――ポーフィロという恋人の気もちはよくわかる、というか、設定では恋をしている彼の視線によって世界が構築されているのだから、マデラインは美しくて当たり前なのかもしれない。そして部屋がまた美しい。背景のステンドグラスの模様、大理石の像、手前のリュート、そのほか部屋の細やかな装飾。そのすべてが夕陽の橙色にあたたかく包まれているその光景に、ポーフィロの感情を空想のなかで重ね合わせてみると、より一層感動的に思えてくる絵画である。

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フレデリック・レイトン《書見台での学習》, 1877.

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フレデリック・レイトン《プサマテー》, 1879.

 

フレデリック・レイトンもこの展覧会ではじめてその名まえを知ったのだが、かなり好きなアーティストであった。《書見台での学習》、本に視線をやる女の子の目の翳、女の子ながらにしてなにか思い悩むことがあるのだろうか、なんて想像を膨らませてしてしまう。《プサマテー》の女性は、ギリシア神話の女神である。神話によると、このあと彼女はアザラシに変身して海に身を投じてしまうらしいのだが、そのせいあってかどこか後ろ姿にはまた翳がある。空と海を距つ水平線と、後ろ姿の哀愁がいいバランスで絵の雰囲気を醸し出している。レイトンの同じく展示されていた《エレジー》という作品もそうだったが、とにかく女性たちの憂愁が、繊細なタッチで表現されていてすばらしい。

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アルマ=タデマ《テピダリウム》, 1881.

Alma-Tadema_(1836-1912)_in-beauty-s-bloom-unfinished-1911.jpg!Blog

アルマ=タデマ《美しさの盛りに》, 1911.

 

たぶんこの展覧会で、ミレイに次いで気に入った画家。ローレンス・アルマ=タデマ(1836-1912)。Wikipediaを見ると「古代ローマ、古代ギリシア、古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵を数多く残し、ハリウッド映画の初期歴史映画などに多大な影響を与えたと言われる」と記載されている。そうなのか。油彩画の《テピダリウム》、水彩画の《美しさの盛りに》の2枚とも、やわらかな質感がそれぞれの技法の特徴をもって、一枚の絵のなかに収められている。《テピダリウム》の女性の官能的な美しさよ。Wikipediaに載っている《ヘリオガバルスの薔薇》《春》《お気に入りの習慣》といった作品でもそのタッチは健在で、ディスプレイを介して見ても驚くほどなのだが、これらの絵のなかの人物たちが話しかけてくるかのような生き生きとしたありかたをみて、「ハリウッド映画の初期歴史映画などに多大な影響を与えた」というのがすこしわかった気がした。具体的にどのような影響を及ぼしたか、というのが知りたいのだけどな。アルマ=タデマの主たる作品もやはりテート・ブリテンにあるらしい。くう。

 

 

ところで僕が今回もっとも気に入ったのは、ジェイムズ・ハミルトン・ヘイ《流れ星》という作品なのだけれど、画像を検索してみたところ、どうにも本物とはちがい発色が悪かったのでここで載せるのは取り止めた。たんに雪景色の寂れた田舎町の夜空に、燦々と星が輝き、その中心に控えめに流れ星が落ちているというだけの絵画なのだが、その美しさに僕はおもわず息を呑み、しばらく立ち止まってその景色のなかに浸った。オリオン座とシリウスをはじめとする無数の星たちが夜空に浮かんでいる。これだけ寓話的な主題の作品ばかりが立ち並ぶなか、その見覚えのある自然の光景の絵画は逆に大きな印象を残した。

 

しかし、今回の展示である意味ますます「ラファエル前派」がなんなのかわからなくなった気もしている。そもそもラファエル前派は芸術運動としてはかなり短いものだったので、確固たる一派の思想表現はなかったという。だからこそ、ほかの運動と容易に接続されうるようなものでもあるだろう。展示されていたヘレン・アリンガムピナーの《田舎道》(1890)は印象派のような作風で、マネのタッチを想起させたし、フレデリック・ケイリー・ロビンソンの《バルコニー》という作品は、その絵を見た瞬間、真っ先にモーリス・ドニの名まえが浮かんだ。いまあらためてロビンソンについて調べてみると、Wikipediaには、ド・シャヴァンヌやゴーギャン、日本美術から影響を受けた、とある。やっぱり、ナビ派じゃないか、あの印象はまちがっていなかった! と確かめるこの瞬間がとてもたのしいのだが、とすると「ラファエル前派」とはいったいなんなのか。もちろん厳密に区分することは不可能だとは思うが、やはりひとりのアーティストがさまざまに重なり合う特性をもっているので、本当に西洋美術(に限らずだけれど)は底なし沼である。ひとつの作品、ひとりの画家を調べるだけでも、つぎからつぎへと時代や国境をこえていってしまう。だからこそ面白いのだけどね。そして、いくつかネットで見たフレデリック・ケイリー・ロビンソンの作品も、とてもよかった。浮世絵を真似たと思しき版画ふうのものもあって、どれも構図がよく描けている印象である。ぜんぜん名前も聞いたことはなかったが、彼の作品はどこにいけば出会えるのだろう。

 

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John William Waterhouse《エコーとナルキッソス》, 1903.

 

まさかウォーターハウスの《エコーとナルキッソス》をこの目で見れるとは、思いがけない幸運だった。ウォーターハウスのこの作品は、僕の知る限りナルキッソスの物語をもっともうまく寓話的に描いている作品である。「ナルシスト」の語源として有名なナルキッソス、ナルキッソスは絶世の美青年であるのだが、アプロディーテーの呪いに掛けられて、泉の水面に映ったみずからの顔に惚れ込み、自分自身とは気づかないまま彼に恋に落ちた。そのすぐそばで叶わない恋と知りつつ、ひそかにナルキッソスに想いを寄せるエコー。ナルキッソスが水面に映った彼自身のすがたを見ている視線を線で結んだ距離は短いいっぽう、エコーのナルキッソスに注がれる視線の距離は、画面の中央を大きく横断している。ナルキッソスは、水面に映った彼とキスを試みて、泉に落ちて死んだという。どのみち悲劇的な運命が定められた「自分しか見えていない」ナルキッソスと、「自分しか見えていない」ナルキッソスに恋をするエコーのふたりのすがたが、美しい森の景色のなかにある。神話から引っ張ってきているとはいえ、その神話をいかに一枚のタブローのなかで再演するか――構図やタッチ、色使いによっていかに物語を付与していくか――というのは画家の力量が問われるところだろう。ウォーターハウスの作品は、ほかに《デカメロン》《魔法をかけられた庭》の二作品が展示されていた。(後者については僕があまり好いていないロセッティの人物描写に近かったのでいまいち響かなかったけれど)すくなくともどちらも非常に物語性に富んだすぐれた作品だったと思う。

 

 

あら、いつの間にかこんなに書いてしまっていた。さっくり行ってきたよ、という報告を書くだけのつもりだったのに。いつも文章を書くと冗長になってしまう病を治して、もっといろいろなことを書き留めたいのだけど。それでも「ラファエル前派展」では、ここでは言及していないすぐれた作品もいくつもあったので、まだのかたは三月までにぜひ足をお運びください。そのあとは五月まで山口県立美術館に巡回するらしいです。そして、テート・ブリテンにいつかいけたらいいなと一緒に夢想しましょう。ああ、もちろん忘れずにリヴァプール美術館も。

 

ところで、いま気づいたのだけど、Bunkamuraのホームページには、今回の展示の説明に、「饒舌な物語――愛と詩、そしてロマンス」という短いキャッチコピーがついている。とてもいいコピーだなと思ったので今回の記事のタイトルにつかわせてもらった。

『英国の夢 ラファエル前派展』
会期:2015年12月22日(火)〜 2016年3月6日(日)※休館日は1月25日(月)
時間:10:00 ~ 19:00(金・土曜日 10:00~21:00)※入館は閉館の30分前まで
会場:Bunkamuraザ・ミュージアム(東京)
料金:一般 1,500円/大学生・高校生 1,000円/中学・小学生 700円 

 


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