Chat noir et blanc volé d’une fenêtre de l’immeuble.

Chat noir et blanc volé d’une fenêtre de l’immeuble.

窓はパリの空にひらかれていた。夏の終わりを控えめに告げる九月の風が、開け放たれた窓から七階のアパルトマンの一室へと吹き込んでいる。白黒の毛に覆われた猫は、その窓にゆっくりと吸い込まれてゆくようにして、おそるおそる窓が切り取っている風景に近づいてゆく。その小さな躯体が風を受けたとき、猫は意を決して、空への大きな飛翔を試みる―――ほんの数秒後、はるか下方の石畳に無残にうち叩かれているとはいざ知らず。

 

 

わたしはその週末、パリの知人のアパルトマンにいた。休日のあいだ、家主である知人は、ガールフレンドとともに旅行に出かけていたのだが、彼の好意にあやかって、わたしは彼らの不在のあいだも、彼らの飼っている白黒の猫の番をするという条件つきでこのアパルトマンに滞在させてもらえることになったのだ。14区のモンパルナス、七階の一室の窓から一望できるパリの情景はすばらしいものだった。パリの不動産事情がなかなかに複雑なことをわたしは知っている。かほどにすぐれた物件に暮らす彼をわたしは羨んだ。

 

家主たちが大きな鞄を持って、部屋をあとにする。その様子をわたしは猫とともに眺めていた。取り残されたわたしたちは、思わず見つめ合う。その瞬間、さまざまな感情がわたしたちのあいだを行き交った ―― つかの間の週末をともに過ごすことになったこの猫は、明らかにわたしのことを嫌っていたように思う。わたしが何か彼の気に障るようなことをしてしまったのかもしれないし、彼はもとより見知らぬひとにたいしてはつねにそうなのかもしれないし、あるいはそもそも猫という動物はすべからくそういう本性をもっているのかもしれない。こちらが積極的に心を開こうとしているのに、固辞としてつんとした態度を崩さない猫に、わたしはすこし頭にきて、いくぶんか意地悪なことをした。くつろいでいる猫をわっと驚かせてみたり、尻尾をさわってみたり、意味もなく追い回してみたり。猫はわたしのことを警戒して、一定の距離を保ちつつ、ずっとこちらのほうを睨みつけている。「おいで、べつに悪さはしないから」と可能なかぎりの優しさを声に混淆させながら話しかけてみても、彼はまったく聞き耳を持たない。日本語だから判らないのかもしれない、なんだってこの猫はフランスの猫なのだから。そう思いあたり、フランス語でもういちど言い直してみても、彼は依然としてその屹立とした態度は崩さなかった。やはり単純にわたしのことが嫌いらしい。いいだろう、それならばこちらもその積りでいこうじゃないか。

 

簡単な夕飯を済まし、シャワーを浴び、あれこれと思案するのにも飽き、わたしはソファに座り込んだ。もう夜は更けている。深く息を吐いていると、わたしのことを嫌っていたはずの猫がのこのこと膝までやってきて、そのやわらかな毛に包まれた体躯を寄せてきた。そして驚くことに、そのまますやすやと寝息を立てはじめたのだ。猫ってやつは皆目わからない、とわたしは力なく首を振りながら、手に入れたばかりのCDをプレイヤーに差し込み、音楽に聞き入った。猫の体温を肌で感じていたからか、わたしは無性に幸福な気分になっていたことを白状しなければならない。いつのまにか、わたしもまた深い眠りに落ちていた。

 

 

翌朝目がさめたときには、すでに猫はわたしの膝のうえから退散し、部屋の隅で丸くなっていた。わたしはテレビをつけてニュースキャスターの早口なフランス語に耳を半分傾けながら、牛乳に浸したコーンフレークを口へと運ぶ。窓には、すでに高くなった日が差しこんでいる。快晴だ。雲もまたとても高いところに浮かんでいる。窓を開け、季節の変わり目を控えめに告げる心地のよい風が流れてくるのを感じた。とくに、ことしの夏のパリの天候は総じてすぐれなかったからか、なおさらこの空気は心地がよい。九月のパリは、一年のうちもっともすばらしい時季なのではないかと思った。

 

ひとと待ち合わせしていた時間まであまりないのに気づく。わたしは慌てて荷物をまとめ、ドアから飛び出した。建物の前を横切る通りは、かつてアニエス・ヴァルダがドキュメンタリーを撮ったというモンパルナスのダゲール通りである。通りには所狭しとカフェやレストラン、ブランジュリなどが並んでいる。日曜とはいえ、ダゲール通りには活気があって、瀟洒な服装の老若男女が道を行き交っている。時刻を確認する。なんとか待ち合わせの時間には間に合いそうだ―――そして数時間後、カフェで煙草を燻らせながらぽつぽつと会話を重ねたそのひとと別れを告げたわたしは、すでに帰路についていた。メトロ四番線の汚い車輌にふたたび乗り込んで、日曜日のまばらな乗客を尻目に、プラスチックの居心地がいいとは言い難い座席へと腰を下ろす。窓の外には、コンクリートの黒い壁が延々と続く。もう幾分か見慣れてしまった、なんの面白みもないパリのメトロの車窓から見える光景である。

 

そこで突然、なんの断りもなく、まるで何かの啓示のように、ひとつのイメージが頭のなかに出現した。あの白黒の毛を携えた猫が、七階の窓から落ちてゆくイメージ。窓を開けっぱなしでアパルトマンをあとにしたことも同時に思い出す。開け放たれた窓に吸いこまれていった猫は、一瞬のあいだ空を舞う。しかし彼とて重力には逆らえない。落下の加速度はぐんぐんと増し、猫の体躯は鈍い音を立てて地面に叩きつけられる、そのイメージ。まさかそんなはずはない。わたしは力なく頭を振って、その不吉なイメージを振り落とそうとした。しかし、いちど産出されたその映像はわたしの脳裏にしがみついてなかなか離れない。

 

地下鉄の駅から地上へと出たあともそれは同じだった。数時間前に待ち合わせに遅れまいと急ぎ足で突っ切ったダゲール通りを、さらに速く歩いて、アパルトマンまでの道を急ぐ。日はもうすぐ落ちようとしていた。ちょうどそのころ、西の空は美しく夕陽に染められていることにまるでわたしは気づかない。ただただ人ごみをかき分けるようにして一心不乱に突き進むわたしの頭にあるのは、あの不吉な光景だけだった。なにか必死にべつのことを考えようとした。だが、そう思えばそう思うほど、落下のイメージはさらに頭を占領してくる。とうていありえないと自身に言い聞かせつつも、不気味なくらいにその予感は鮮烈なリアリティを孕んでいる、そのことにわたしはどこかで気づいていた。絶対の思考は現実をも変える。どこかで出逢ったその言葉が、まるでわたし嘲り笑うかのように、頭のなかに鳴り響いていた。

 

もし、もしほんとうだったとしたら。わたしは、永遠に続くかと錯覚してしまうほど長く長く続いているダゲール通りをゆく足を緩めないままに、みずからに最悪を問う。あの窓は、通りに面している。猫があの窓から落ちたのだとすれば、石畳のうえにその体躯はあるはずだ。その場合はきっと人だかりのようなものができているにちがいない。仮に誰かがすでに撤去していたとしても、血の痕跡はのこっているだろう。つまり、わたしがあのアパルトマンの前についたとき、なにもそのような形跡が確認できなかったのならば、猫は相変わらずあの部屋でわたしを待ち受けているだろうし、わたしと彼のあいだの茶番は、今宵も繰り返されることが約束されるはずである。わたしはただその茶番がふたたび繰り返されることを願った。そもそも ―― そもそも、窓は、開いていただろうか? こんなのはすべて、杞憂にすぎないかもしれないのだ。

 

ようやく、あのアパルトマンが見えてきた。すでに足は疲労を感じている。ひとだかりはない。猫の体躯と思しきものも見当たらない。建物の目の前にたどり着いた。わたしは見上げる。ここからでは七階の窓がひらいているかどうかは確認できない。しかし、石畳を隈なく点検してみたものの、まったくといっていいほど動物の落下を思わせるような痕跡は確認できなかった。わたしは安堵した。そこではじめて、あの怖ろしいイメージを頭から振りほどくことに成功した。いったいあの想起はなんだったのか。わたしはひとりで、力なく笑ってみせた。

 

 

建物の玄関のコードを入力し、いつもと同じようにエレベーターまで向かう。お腹がすいた、なにを食べようか、とわたしは能天気なことを考えはじめる。エレベーターのボタンを押した ――― そこでわたしは、そのボタンの隣に、ちいさな白い紙が貼られていることに気づいた。黒いボールペンで、細かく走り書きがされている。

 

“Chat noir et blanc tombé d’une fenêtre de l’immeuble. Appelez au numéro.”
この建物の窓から白黒の猫が落ちました。この番号に連絡してください。

 

わたしは、すさまじい勢いで血の気が引いていくのを感じた。自分の目が信じられなかった。わたしはその短い文章をなんどもなんども読み返す。いま意味を受け取ったばかりのその文字列は、わたしのことを無表情に見つめ返してくるだけだ。それ以下でも、それ以上でもなく、ただその意味をわたしに向かって告知し続けている。なにかが間違っているんじゃないか。たったその数秒のあいだに、いったいなんどわたしの目はその小さな紙きれの上を左右に往復したことだろうか。

 

目の前でエレベーターがひらいた。わたしはその紙を引き剥し、右手の掌のなかに丸め込む。エレベーターは動き始める。心臓が激しく胸うち、呼吸すらまともにできない。四肢から痺れの感覚が拡がってゆき、エレベーターに運ばれるあいだ、わたしはまともに両足でみずからの体重を支えることができなくなっていた。つい先刻まで脳内を占領していたはずの落下のイメージは、いつのまにかもう掴めなくなってしまっている。「ありえない、ありえない」という声が頭のなかにこだまする。

 

七階、わたしはふらふらとエレベーターから出て、部屋の鍵を開けた。部屋に踏み入る。わたしの目が捉えたのは、大きく開け放たれた窓だった。わたしの皮膚が感じたのは、少しばかり冷えた、窓から吹き込んでくる早晩の風だった。しかし、なににも先立ってその空間がわたしに告げていたのは、圧倒的な「不在」だった。わたしは、とくに精査するでもなく、本能的に猫の不在を嗅ぎ取った。彼は、ほかでもないわたしが開けたあの窓から、空へと舞っていったにちがいない。わたしが先刻まで思い浮かべていた映像そのままに。およそ四肢の感覚は失われてしまっていた。そのままソファへと倒れこむ。まだわからないじゃないか。わたしの無残な様子を眺めていたもうひとりのわたしが言う。猫は確かに窓から落ちたかもしれないが、まだ生きているかもしれない、病院で怪我の手当てでもしているのかもしれない。

 

わたしは右手の掌でくしゃくしゃになっていた紙きれをふたたび視界にいれた。電話番号が記載されている。いったいなんの番号だろう。病院だろうか。タブレットを取り出し、その番号をインターネットで検索すると、それはやはり14区の動物病院の番号だということがわかった。いまだに動悸は治まらない。震える手で電話をつかみ、記載されたとおりの番号を打ち込む。だが、わたしはなかなか発信ボタンを押すことができない。飛翔のイメージはふたたび頭のなかで再生されはじめている。

 

呼吸を整える。気が遠くなるほど長い躊躇ののち、わたしはついに発信ボタンを押した。冷たく響きわたるダイヤル。わたしは息を張りつめる。電話に出たのは、やわらかな声の男性だった。声を振り絞る。なんとかわたしはいまの状況を説明した。向こうはこの電話が掛かってくることを見越していたかのようにすぐさま合点し、わたしに住所を告げ、すぐに来て欲しいといった。あなたは猫の飼い主か。いいえ、わたしは飼い主の知人で、飼い主の留守のあいだ、猫の面倒を見ることになっていた者です。そうですか、とにかくすぐに来ていただけますか。

 

それで、猫は、彼は・・・。声が詰まる。彼は、どうなったのでしょうか。数秒の沈黙。電話口の向こうの男が口をひらく。彼は、***です ――― 沈黙。わたしは、その単語を聞き取ることができなかった。恐ろしさのあまり訊き返すこともできなかった。わかりました、いまから向かいます、と静かに告げ、電話を切る。足元に転がっていた電子辞書をつかんで、とくに考えることもせず、わたしは和仏辞典に「死」と打ち込む。さきほど聞いたと思しき単語は見当たらない。彼はきっとその事実を伝えるために、遠回しな云い方を選んでくれたのだろう。わたしはすでに、その時点で、いやもっと前から、あの猫の死をどこかで直感していたのだと思う。

 

 

覚束ない足取りで、指定の住所まで向かった。わたしの目にはいつもと同じような光景が映っている。すでに日の暮れてしまったダゲール通り、いつものようにひとびとはレストランで話を咲かせているし、いつものようにひとびとは帰路を急いでいるし、いつものようにひとびとは煙草に火をつけている。一匹の猫がいなくなったかもしれない世界は、相も変わらず回り続けているのだ。そのなかで、まるで私ひとりだけが地球の自転に着いていけなくなってしまったような気がして、なぜだか無性に可笑しかった。いまのわたしは、この地を踏んでいるはずなのに、完全なかたちではこの世界に属していないのだということを悟った。

 

動物病院に着いた。建物の内装のシミひとつない白が眩しい。男と女がいた。わたしの顔を見て、誰であるかはすぐさま諒解したのだろう。わたしが何かをいう前に、椅子に腰を下ろすように勧められた。いわれたとおりに座る。彼らは僕の両隣に座り込み、僕の顔を大まじめに覗きこんでくる。男は重々しく口をひらく。

 

非常に残念ですが・・・猫は亡くなりました。手足にまた痺れが拡がる。面会をご希望されますか。わたしは力なく首を振る。彼らのことばが、僕の目の前をテロップになって流れてゆく。救急の連絡を受けてから、すぐさま駆けつけ、僕が抱えて病院に戻りました。できるかぎりの処置は施しましたが、どうやら打ちどころが悪く、内臓が破裂してしまっていて。運が悪かっただけなんです、だれにでも起こりうることなんです。心地のいい季節だから、だれだって窓を開けたくなるし、人間だから開けたままにしてしまうことだってあります。ほんとうは防護ネットをつけておかないといけないんです。だから、ご自身を責めないでください。

 

そうかもしれない。こういうことが人生の節々で突如として訪れることも、あるいはあるのかもしれない。だけどわたしは、ガールフレンドとふたりでバカンスを楽しんでいるはずの知人に、この事実をなんと告げればよいのだろう? どんな顔を向ければいいのだろう? これからどうすればいいのだろう? そもそも、わたしはいったい何をしてしまったのだろう? ―― わたしは、その思うさまをぽつりぽつりと、身を寄せてくれる白衣の男性に吐露した。わかります、簡単なことではありません。けれど、真摯に伝えれば、きっとわかってくれるはずです。

 

わたしは思い直して猫の遺体と面会をすることにした。女医は保冷室らしき部屋にひとりで入り、そこから白い紙にくるまれた猫を抱えて戻ってきた。彼女はすばやい手さばきで包装を取り外し、部屋の中央にあった台に猫の体躯を横たえた。彼らはいつのまにか部屋から退出し、わたしひとりが猫と取り残されている。あのときと同じだな、とわたしはひとり思った。知人がバカンスへと出かけた朝と同じだ。けれど、もう猫のほうは見つめ返してくることはなかった。その瞼は閉じられたままだった。わたしは、おずおずと猫のからだにふれる。傷ひとつ見当たらない体躯は、もうすっかり冷たくなっていた。そのやわらかな白黒の毛を撫でてみせる。いくつかの意地悪をしていたのに、いまになってこれまでにないほどの優しさを込めて毛を撫でているわたしは卑怯だ。どうしようもないほどに卑怯だ。いてもたってもいられなくなって、わたしは「ごめんな」と呟いた。発音した途端、わたしはこのことばの空虚さにうろたえた。これほどまで口に出して後悔させられることばは、わたしの先のも後にも、もう見つからないかもしれない。白の空間に孤独に響く、そのことばの無意味さに打ちのめされ、所在なくわたしはその場に立ち尽くす。

 

わたしは見た。この猫が、抜け殻となって横たわっている姿を、必死になって見た。わたしはこの光景を瞼に焼きつけなければいけない、と自らに命じた。だれかはその猫の様子を、まるで眠っているかのようだ、と形容するかもしれない。だが、そのことばには違和感を禁じえない。なぜなら、「そこにいない」ことが、一目で判ってしまうからだ。もうあの猫はここにはいない。しかし、わたしはここにいる。わたしたちのあいだには、睨み合っていたとき以上の、途方もないほどの深淵が掘られてしまったのだ。それも一瞬のうちに。

 

わたしは面会を終了させ、必要な諸経費をクレジットカードで支払い、ふたたび帰路についた。男と女には感謝を告げた。男の声には、すさまじい包容力があった。わたしは彼にどれだけ救われたことだろう。もちろんこのような場面は、彼にとっても歓迎するべきようなものではないのは間違いないが、あるいはこの仕事は彼にとって天職かもしれない。わたしはそう思いながら、来たばかりの道を引き返す。

 

 

横断歩道、ひとりの若い女性が、突っ込んでくるバイクに轢かれかけ、悪態をついていた。その様子を見て、だれかが「予測できないままに突然訪れる〈死〉について考えるより、〈出生〉について考えるほうが深いのだ」といっていたのを思い出す。わたしはここに反論を呈したい。〈死〉は、予測ができないままに突然訪れるからこそ、「突然訪れなかった場合」のことを否が応でも想起させられてしまうから、われわれにとってつねに深遠な主題でありつづけてきたのだ。みなが百歳に死ぬと決まっていたら、どれだけ世界は奥深さを失っていただろうか。

 

そして、ある存在の〈死〉を考えるときにはいつも、わたしたちのもとにはその存在にまつわる記憶が宿っている。白と黒の毛並みを持つあの猫は、三歳だったそうだ。飼い主たちがどれだけともに過ごしてきたのか知らない。どれくらい彼のことを愛していたのかも知らない ―― わたしは、彼の名前すら、知らない。わたしのもとにあるのは、名前も知らぬ猫と過ごした、たった数日の記憶だけである。もうあの猫は、あのモンパルナスの一角に位置する部屋のなかを自由に歩き回ることはない。彼はもうその窓の外に広がるパリの風景を、憧憬をもって眺めることは二度とない。それらは永遠に失われてしまった。

 

 

わたしは彼らに伝えなければならない。その不在を静かに告げたままの部屋に戻ったわたしは、ソファにでっぷりと腰をかけて、みずからにそう言い聞かせた。伝えなければいけないことはわかっている。けれど、どうやってこのすべてを云えばよいのだろう。わたしは電話を手に取ってからも、そのモラトリアムをできるかぎり延長するべく茫然としていた。できることならこのまま眠りに身を任せてしまいたかった。けれどそれは許されない。長い長い逡巡の果てに、わたしはまた発信のボタンを押した。すぐに耳元には聞き慣れた知人の声が届く。おう、どうした。お伝えしなければいけないことがあって。わたしは訥々と語り始める。彼は取り乱したりはしなかった。いくつかわたしに質問を寄せたあと、その隣にいたらしいガールフレンドに手短にその事実を伝えた。

 

彼女は大声で叫んだ。ありえない、ありえない、と。その声は電話を介したわたしのもとにも嫌というほどクリアに届いた。彼は彼女を宥めようとする。しかし彼女の動転は収まらず、やがて泣き叫ぶ声が聞こえてきた。わたしはお詫びの気持ちを伝える。いくつかの事務的な内容も伝える。そのあいだじゅう、わたしのもとには、わたしの声を掻き消さんかのごとく、彼女の嗚咽が聞こえてくる。わたしはどうすることもできず、ただただ静かに受話器を耳に当てていた。またわたしはその声が静かに耳に届くさまを視ていた。心苦しかった。どうしようもないほどに心苦しかった。わたしは、何を言ったって、何をしたって仕方ないのは承知しているが、できるかぎりのことはする、といった。

 

じつはわたしは、その翌朝にはまた飛行機に乗り込み、とある異国へと長きにわたって旅立つことを予定していた。わたしはそのフライトはキャンセルして、対面でお詫びをします、といった。彼は電話の向こうで彼女にその旨を伝える。「出ていって、すぐさまそこを去って」と彼女は躊躇うことなく叫んだ。電話口にいた彼に仲介してもらうまでもなく、わたしは諒解した。どうすることもできないことが、ただただ苦しかった。出ていって欲しい。あとのことは、俺たちでなんとかするから。

 

 

やがて受話器を置いたわたしは、猫の冷たくなった体躯を思い出して、さめざめと泣いた。猫の死に直面してから、数時間が経って、はじめて涙が頬を伝い、静かに落ちていった。この涙は、あるいは自分自身にたいする芝居なのかもしれない。ただの自己欺瞞にすぎないのかもしれない。けれどわたしは、感情の横溢を止める術を知らず、ただただ涙が流れてゆくのに任せていた。それはなにも解決しない。けれど、ここでわたしは、ようやくひとつのことを悟った。

 

わたしは、ひとつの命を奪ったのだ、と。だれかの愛するひとつの存在を、ほかでもないわたし自身が窓から突き落としたのだ、と。わたしはこの死をいつまでも背負わなければいけない。この記憶はやがて薄れていってしまうかもしれない。まぶたの裏に留めんとした猫の遺体も、きっといつかは朧げにしか思い出せなくなってしまうだろう。だが、わたしは、この事実だけは引きずったまま生きなければいけない。だれがなんといおうと。そうわたしは涙のなかでみずからに誓った。友人がわたしにいったことばを思い出した。異国の地で、きみはもっと〈死〉について考えるべきだ。奇しくもそれから間もなくして、わたしは思いがけないかたちで、このようにひとつの〈死〉に直面することになってしまった。しかもそれは、わたし自身がもたらした〈死〉だったのだ。

 

窓の外に目をやる。もうとっくの昔に日は落ち、夜がそこにいた。街の光は、夜を照らしている。わたしは、数時間前にメトロの車窓から黒い壁を眺めていたときに、わたしのもとを襲った落下のイメージについて思い返していた。それは、紛れもないひとつの啓示だったのだ。彼が、最期にわたしに残したメッセージだったのだ。あれほどのリアリティをもって、わたしの脳内でひたすら再生されつづけたあの映像を通して、あの猫はわたしになにを伝えようとしたのだろうか?

 

ふと、わたしが身につけているズボンに目をやると、白と黒の猫の毛が、布にいくつか付着していることに気づいた。あれだけうっとうしく感じていたこの毛たちは、たしかにひとつの生命が存在していたことの証左である。見渡せば部屋のあちこちに毛は付着している。こうしたひとつの生命の痕跡は、時間が経つにつれ、やがてすべて失われてしまうのだろうか。

 

わたしは瞼を閉じた。もうそこにはその小さな体躯を寄せ、わたしと体温を分かち合うような生命はいない。わたしは、翌朝には予定どおり異国に飛び立つことになっている。それから間もなくして、知人たちはダゲール通りに建つこのアパルトマンに戻り、わたしと同じように、いやわたし以上に、部屋の「不在」をすぐさま察知するだろう。そして、わたしがことばの空虚に打ちのめされたあの白い部屋で、あの猫の冷たくなった遺体と対面することになるのだろう。彼女はまた大きな声をあげて泣くのだろうか。白衣の男はどんなことばをかけるのだろうか。彼らは、地球の自転から振り落とされずに済むのだろうか。

 

複数の叛乱する思念のもと、やがてわたしは、眠りに落ちた ―― この夜、わたしは何の夢も見なかった。

 

♢ ♢ ♢

 

あれからいくばくかの月日が過ぎた。わたしはすでに異国での日々を終えて、もとの日常に舞い戻り、代わり映えのしない日々を送っている。いまだにわたしは、ときどきいてもたってもいられない気持ちになり、振り向いては大きく開けはなたれた窓に目を向ける。そこにモンパルナスのアパルトマンの窓を重ねて見ることがある。窓の外には、いまも風が舞っている。その窓に吸いこまれそうになっているわたしがいる。いまなら飛べるかもしれない、と心のなかでひとりで呟く。そしてわたしは、ひそかに思うのだ。あの白黒の猫もまた、あのとき、ほんとうに飛べていたのかもしれない、と。

 


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