東浩紀×家入一真×イケダハヤト対談『評価経済時代の個を考える』に行って僕もすこしだけ考えた

東浩紀×家入一真×イケダハヤト対談『評価経済時代の個を考える』に行って僕もすこしだけ考えた6/18(月)に行われた、東浩紀 @hazuma、家入一真 @hbkr、イケダハヤト@IHayato の3人による『評価経済社会の個を考える』というトークショーに行ってきました。面白かったのでこちらにてまとめがてら報告。

東浩紀×家入一真×イケダハヤト対談 『評価経済時代の個を考える』

そもそもなんでこんなの行ってんねんってことなんですが、2月末から起業家界隈で有名な家入一真さんの経営するシェアオフィスpartygroundというところでゴソゴソと働かせていただいておりまして、その話はとりあえずここではすっ飛ばしますが、その関係で家入さんの出演するイベントにはチョロチョロと顔を出させていただいています。

今回は家入さんも含め、あのアズマンとひっそりと知っていたイケダハヤトさんが出て「評価経済社会」のトークショーを行うということなのですぐ食いつきました。

評価経済とは、ってことで一応軽く説明をすると、

元はと言えば、岡田斗司夫さんが書いた『評価経済社会』という著書の中で提唱されている考え方で、端的に言うとこれからの世の中は「貨幣」を通じてモノ・サービス・ヒトが動く貨幣経済社会ではなく、代わりに「評価」が中心となってそれらが交換されてゆく社会のことだそうです。お金は不要になるわけではなく「お金」が「評価」に従属するようになる、らしい。(くわしくはここみてください = 評価経済社会

実はこの本僕もまだ読んだことないのだけれど(笑)、何となくこの考え方自体は理解できます。本を読んでいないし大して知らないので立場を明らかにすることができないけれど、概念としては腑に落ちる。もっとも象徴的なのはツイッターのフォロワー数とかでしょうか。上のリンクでは

1億円持ってる人より、Twitterのフォロワーが100万人いる人のほうが偉いという価値観。
それはお金があってもできないことが増えてきたから。例:金持ちであってもダボス会議に行けないなど。

と書かれていました、なるほど。ツイッター界隈で名を馳せるノマドワーカーはツイッター経由で仕事をもらうことも多いそうですが、こういうのも評価経済社会と繋がっているんでしょうね。SNSがここまで発達してこういう状況だからこそ評価経済社会になりうるのでしょう、たぶん。

さて、まあその程度の知識でいった評価経済社会ですが、十分楽しめました。途中話が脱線に脱線して、ゲイネタだったり下ネタだったりとこれは何のイベントだっけ?と思わざるを得ないような状況にも陥りましたが、それも含めて楽しかったし本題のほうでは特にアズマンの論旨がキレキレでほええと頷くばかり。メモをごそごそと取っていましたよ、そりゃあもう。

このトークショーはUST中継されてライブラリにも残ってるみたいなので、こちらで観てもいいとおもいます。2時間半あるけど。観て損…はしないとおもう、たぶん。たぶん。すくなくともキレキレのアズマンの最初のほう、あるいは最後のほうだけ観ても面白いかもしれない。彼は本当にスラスラと明快な言葉が出てくるんだけれど、なんでそんなしゃべれるんですかという問いに関して「サッカーのドリブルみたいなもので、話始めれば何も考えなくともすらすら最後まで喋ってる」と答えています。あの喋りに大してアンチが湧くのは理解できないこともないけれど、僕は今回そこそこ好感持ちました。

ライブラリに残っていて視聴できるので書く意味はあるのかって感じだけどまとめてみようとおもいます。

  • 世界はほんとうに評価経済社会に移行しつつあるのか?
  • アズマンは、評価経済社会というソーシャルネットワークでいままでとは違ったかたちで情報が流通するようになったため、個人が会社などの大きな組織を介することなく直接評価を集めることが可能になり、それが経済に結びつくようになった。これは裏を返せば競争が激しくなったということであり、これまでは組織によって均されていた個の能力は、いまでは直接それが社会的成功に結びつく、という大変な時代に入っている、という。

    イケダハヤトさんは、現在業務時間の50%を割いて基本的に無償でNPO活動に従事しているが、この大きな理由としては日本社会は将来これまでのように年金制度といった社会保障制度を保つことは難しくなり公共が破綻してゆくゆえに、この「保障」というものを個々が考えなければならない時代に入ってきている、そこでこれらのボランティア活動を行うことで、社会から「信頼=評価」を得て、将来たとえば彼が倒れたときに「お礼」として保障の代わりになるような個人としてのセーフティネットを張ることを考えて動いている、という。

    家入さんは、彼が最近やっている、CAMPFIREを始めとした、「個人が直接お金を集めることができる」クラウドファンディングという仕組みを利用した事業を立ち上げている。これはまさしく個人の「評価」に従ってお金が動く、ということで「評価経済社会」は彼がいままでやってきたことを後押ししてくれる考え方だ、という。また、「個の能力を切り売りする」という考えも持っていて、これはまさに評価経済社会において為されることだ、だそう。

    3人は以上のようにそれぞれ評価経済社会に関して異なる意見をいうのだけれど、アズマンがこのあとバシっとクラウドファンディングの考え方を否定します。以下トークの流れを要約します。

    短く言えば、クラウドファンディングなどにおける評価経済社会においては、「過多のコミットメント」と「サステイナビリティの欠如」という2つの問題を抱えているため、ひとは自由になれず、また長い間一定の評価を得続けることが難しいということです。

    たとえばとあるプロジェクトを掲げ、クラウドファンディングを利用して100人から1万円ずつ集めて100万円集めるのは一見簡単に見えるけれど、それはつまりその時点でその100人と「コミットメント」してしまったことを意味します。1人から100万円集めればコミットメントしているのは1人のみで、仮にプロジェクトが予定通り執行されなかったとしてもその1人を納得させればいいだけのこと。しかしながら、前者の場合だと100人全員に対して納得してもらう必要があり、ぜんぜん自由にはなれない(過多のコミットメント)。

    もうひとつの点は個人が「評価されること」の内実は異なっていて、個人そのものへの評価なのか、あるいは個人のやっている仕事に対する評価なのかと2種類存在しているが、大抵の場合は後者である。ジャーナリストなどは「正しいこと」を常に言うことで社会に評価されているが、それが言えなくなってしまったとき社会は冷めてゆく。ここでもひとは自由にはなれず、その評価を持続させることは難しい(サステイナビリティの欠如)。

    そしてもうひとつ考えなければならないのが、評価経済において個が全員うまくゆくことはないため、個と社会では考え方を変えなければならないということ。評価される「価値」というものは基本的に「希少性」についてくるものであり、全員が同じことをやる場所において評価される価値は存在しない。これまで個人の価値で生き残っていけない人たちをどういう方法でメンテナンスしてゆくか、それが社会保障の役目だったがそれがなくなった今、本当の意味で競争社会になってゆく。(例えば、自己啓発本などがあるが、これを読んで成功する人間はいない。なぜならそれはあくまで「個」がその方法で成功しただけであり、社会が同じ方法をとっても原理的にうまくゆかない。)

    以上がアズマンが本気を出して語っていたことです、圧巻ですね。ここまでうまく言語化できるとは、さすがというべきか。

    ここでイケダさんは、自分の先ほどのセーフティネットの例は、個に対する「期待」によって行われているものとは質が異なり、「返報(お礼)」として行われるものだから、そこで縛られたり責任を感じることはなく基本的に自由であるとおっしゃっていました。「ギブ&テイク」とも考えられますが、確かにこれならアズマンの言う評価経済社会の欠点をクリアしているようにも見えます。ただこの「返報」としてのセーフティネットが働くのか、という確証は得られないし、実際に社会保障の代わりとなりうるほどの感謝の意をボランティア行為によって第三者に与えることができるのかということはすこし疑問に思ってしまう。すくなくともこれも、社会全体が行えることではないのではないとはおもいます。

    このあと、家入さんのstudygift騒動を中心に話がすすんでゆきます。
    まずアズマンが評価経済社会は「スケール感(規模)」が大きすぎるとうまく働かなくなる、と指摘します。家入さんがしょっちゅう言っている「自分を切り売りする」仕組みは、”コントロールできる規模”の少数のコミュニティならば現にうまく働いているが、たとえばツイッターなどでフォロワーが多すぎる(数万単位になる)”コントロールできない規模”になると障壁が増えてネットができなくすることもある、と言います。これはつまり先ほどの「過剰なコミットメント」の問題に帰結するとおもう。イケダさんはSNSは隣の芝を可視化した、と表現しましたがこのような状況になったが故に、スケールが大きすぎると人間の基本的な感情のひとつである「妬み」といった感情が次第に頭角を表しアンチができてこの仕組みが上手くいかなくなる、ということです。

    ツイッターの話をすれば、いまの時代は誰もがツイッターを使えるようになっています、だからこそリテラシーの低下が著しくスケールが大きすぎるとリテラシーが低いひとたちの耳にも情報が届き、荒れてしまうということ。ツイッターというメディアを使いこなせるというだけである種のフィルタリングとなっていた数年前とはまったく状況が異なってきたということですね。

    アズマンは単なるフツウな学生はツイッターは絶対やめたほうがいい、とも言っています。何にもいいことがない、と。簡単に炎上するし、あの危ないメディアを就職に有利にするように使えるのはごく一部の限られた人間だ、という。

    しかし、イケダさんは2万人を超えるフォロワーが居て、それをうまく利用して彼のブログのPV数を稼ぎ(月40万PV程度だそうです)、そのアフィリエイト収入で月15万円を稼ぎ、多くはないながらも生活をしている、そしてツイッターなどを利用してはじまるそのときどきによって変動する自由なNPO活動で「返報」としてのセーフティネットを手に入れ、というようにメディアを使いこなして一見それなりにうまくやっているよう。

    これに対しアズマンは「サステイナビリティの欠如」を掲げて反駁します。彼もそういう風に、かつて自由な個人の集まりによってのらりくらりと生きてゆければいいや、と思っていた時代があったそうな。だけれど、いまそこには「コミットメント」が存在しないと気付き、したがってひとを育てることができない=サステイナビリティの欠如、というふうに考えを変えただとか。
    世代はじきに変わってゆくもので、次の世代のひとを育てるということは社会の、あるいは「個」が目指すヴィジョンへのサステイナビリティに繋がります。というかそれがなければ持続性はない、と言ってもいいとおもう。これまでは大きな組織の家族型経営という仕組みでよくもわるくもひとがその環境のなかで育てあげられてきた、という持続性はあったけれど、自由な個人の集まりだけではひとを育てることはできない。
    したがって、持続性を持たせるためには組織が必要になるが、組織をつくるためには全員の給与分を保障できるくらいのお金が必要になり、そのためにも自分の生活だけのお金をその時々の短期プロジェクトで稼ぐだけでは十分でない、ということです。ちょっと流れを説明しにくくてわかりにくいとおもうのだけれど、ひとことで言えば要するに「フローとストック」のバランスをどう組み合わせるかという問題で、かつてはストックが主だったけれど、いまはフローが重視されてきているように思えるが、それでは持続性はない上に社会を変えるほどの力を持つ事ができないということです。

    そのあとちょっと出たのが、「ひとを育てる」ということに関連して、また登壇者全員が子持ちだったということもあって、この社会が今の彼らの子どもに切り替わったら、という話題になりました。SNSが力を持ち始めた時代になってからまだ間もなく歴史はまったくない。十年後、数十年後に子どもへの世代に変わったときに評価経済社会はどのように働くのか、という話。たとえばアズマンには娘がいるのだけれど、アズマン娘もツイッターをはじめてそれを公言すれば、それだけで「評価」となり他人とはスタートが異なる、というまた怖い社会になりそうだということです。これはいままで誰も経験したことがない。とアズマンはいっていたけれど、これは僕は芸能人やスポーツ選手などの有名人の子どもが評価されるのと同じようなことなのではないかなあと思います。確かに「注目」を集めることは容易いけれど、それが「評価」に100%繋がるかどうか、というとそれは容易に首肯できない。七光り的なのもたしかに存在するけれど、実力がからっきしであれば評価は冷めていった、というケースも多いし。たしかにこの社会が20年後、30年後どうなっているのかということには興味があるけれど。なんだか分かりそうで分からない。

    いろいろぶっとばしてますが、最後に質問タイムになり、すごく良い質問がありました。「評価は貯金できるのか?」という質問です。というのも、イケダさんは返報という形で、一見評価を貯金しているようにも見える、が一方でstudygiftでの家入さんの失敗のように些細な失敗で一気に評価を失うこともある、じゃあ評価は結局貯められるの?貯まらないの?

    イケダさんの考えではやはり「返報」は「期待」への評価とは異なるから、貯めることもできるのではないか。家入さんは、思いあぐねた上「それでは師匠お願いします。」
    家入さんとアズマンの会話はすごく面白かったし、この序列的なかんじもすごく見てて心地よかった。この二人喋らすとうまいバランスでトークが進んでトークショーとしてもすごくよかった。一方イケダさんはあまりマイクを持たずひたすらMacBookをニヤニヤしながらタイピング…TLではすごい「しゃべれよ」と貶しているひとも多かったけど、まあ僕はあまり気にせず。

    さてここで本日の主役アズマンに話を戻し、彼の最終弁論をダイジェストでお届けします。

    “世の中には目に見えるものと見えないものの2つが存在する。本当は見えないものを見えるものにしたのが「貨幣(お金)」であり、見えるからこそお金は貯まってゆく。最近の価値評価経済と呼ばれている流れのなかで、ひとは「価値」という見えないものをTwitterのフォロワー数みたいに、数値化されて見えるようになって貯まるのではないか、もしかして貯めて将来利用できるのではないか、という夢を見ているが、それは夢でしかない。価値というものは本質的に心の瞬間的な動きによって下されるものであり、だからこそ尊いのだけれど、それはサステイナブルになりえない。それに反して人生は連続的であるから、評価経済社会のような”一発屋”として評価を手にするだけではサステイナビリティが欠如しており、人生全体の設計としては別のことを考える必要がある。”

    詳しくはUSTの一番最後のほう(2:20:30くらいから)に要素が詰まってます。
    とかく、そういう感じで終わりました。このあと懇親会があったのだけれど一人で特攻する気にもなれずそそくさと帰宅。今回のイベントは、いってきてよかったなあと思います。「評価経済社会」とつながりのある3人から話をきくことができて、大変有意義だった。気がする。これからの時代、この社会は本当に完全に移行されるのか、これから18歳の僕が長い期間をかけてしっかり目にしたいとおもっている。

    最後に、僕は、ということですけど。非常にざっくりとしたことで申し訳ないのだけれど、どのコミュニティでも通用する、希少性を獲得できるような武器がなければいけないなと改めて思いました。イケダさんの返報でもそうだし、家入さんの「自分を切り売りする」でもそうだし。たとえ小さな規模のコミュニティでも、何か他者より突出しているものがなければ、「評価」されることはない。武器というのは、何もスキルや能力だけの話ではないなあとも思った。自分という人間性というか、カリスマ性というか。もちろんいま現在ぜんぜんないのだけれど、例えば僕がよく一緒にいる友人とは、それぞれが様々なファクターでのアスペクトを持っているとおもうのだけれど、その総体としての個を認め合っているからこそ一緒にいるわけで。誰しも欠点があるのだけれど、欠点を補うほどの引きつけるものがあるから共生することが可能なわけですよね。だから、そういうお互いの総体としての「希少性」を認め合えるようなちいさな評価コミュニティというものはどんどんと広げたいなと思っています。そして、アズマンは評価経済社会という激しい競争のなかで生き残る人間は極めてすくないといったけれど、僕は何としても生き残ってやろうと思います。ただし、今の段階では武器と成りうる特化した専門性はまったくなくてぜんぜん戦えないのだけれど、それを磨いて、総体としての自分をうまくアピールできるようになれば可能性はなきにしもあらずと信じている。信じることは大切だ、根拠のない自信。ずっと今年は同じようなことを言っているね。たぶんまだまだ同じようなことを言うとおもう。数年後にこの主張が客観的に見て現実味を帯びてくればいい。そのために今日を頑張る。


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