19歳、風呂場でのぼせるまで。

19歳、風呂場でのぼせるまで。19歳になった日の夜、風呂に入りながら、複雑な感情がゆらゆらと自分の中を徘徊していた。

19歳になってしまったらしい。10代最後の1年間が始まる。もう始まった。
もうこれでモラトリアム期間は終わってしまう。これで終わらせたくないし、このままでは終われない。

モラトリアムというのは素敵な言葉だと思う。「人間の成長の中で社会的責任を猶予される期間」。たぶん誰も社会的責任なんて負いたくないんだ。「責任」なんて一丁前の言葉で、だれしも結局は縛られている。義務も責任も結局は同じ言葉だ。社会に出ることとはそういうこと。窮屈な場所に体を押し込めること。そんなものが猶予される期間。最も身の軽い期間。ひとは老いるごとに、汚れを身に堆積してゆく、「社会」というものに適合しようとすればするほど、体は重くなる、不要なものたちに束縛されてゆく。これが人間の営みなんだろう、仕方のないことかもしれない。かもしれないけれど。・・・・・・・・・!叫びたい。主張したい。社会を敵に回してでも叫びたい。声にならない。声にするつもりすらあるのか分からない。叫びたいのかも分からない。その間にもまた、年を重ねている。なぜなんだ。弱いからか。なぜなんだ。

丁度1年前の、17歳から18歳になったときに、ブログを書いた。

“Yesterday, I was 17 years old.”
思うに僕はきっと、まだ子どもでありたかったんだと思う。

大人になるということにもちろん期待はしているし、楽しみでもある。

だけれど、「子ども」と括られれば、時に窮屈なことは多いけれど、その分甘えられる。
「子ども」だから仕方ない。それに期待する甘えが、緩さがどこかに絶対あった。

その窮屈さと緩さのバランスが、「17歳」はちょうど良かったんじゃないかと思う。

たぶん、僕はまだ17歳だ。17歳のまま何も変わっていない。変わりたくない。19歳?信じられない。結局18歳なんてこれっぽっちも理解できなかった。たぶん10年後も、あるいはいつまでも17歳で有りたがってることだってあるかもしれない。いつまでもきっと年齢を理解できないままただ時が過ぎ去ってゆくんだ。ラストティーンなんてくそくらえだ。本当に糞でも食ってればいいと思うんだ。結局どうせわからないんだ。悔しい。本当に悔しい。フェイスブックにメッセージが投稿されたという通知がくるたびに僕の悔しさは増幅してゆく。形式的なものとはいえど、本当に祝われる価値があるのか?たしかに今日は誕生からちょうど19年が経った記念すべき日なのかもしれない。それでも、僕はまた着々と猶予の期間を失っているんだ。

僕の自意識が確立しはじめたときから、僕は、すべてを、ずっと失い続けてきたし、これからも失い続けるだろう。この言葉の意味を、よく理解できなかったこともあった。でもいまはすこしだけ分かったかもしれない。いまこの瞬間もすべてを失い続けている。とりわけ軽さを。そのなかでも、猶予期間を。

葛藤する。これからも失い続けるだろうということは分かっている。感じている。それでも、失われることがどんなに厭でも、逆らえない力があることもわかっている。ならどうすればいい。なるたけ「窮屈」にならないようにするんだ。そのためにはやっぱり力が必要だ。武器が必要だ。

2012年に入って、始めの記事で、僕は「今年の目標は、武器を手に入れること」と書いた。何をすればいいのかわかっている、スタートをすこしずつきっている、と書いた。

半年が経った。2012年はもう折り返し地点を通り過ぎ、終焉へとひたすら足を早めている。その間に僕は高校を卒業した。大学生になった。モラトリアムたる大学生になった。さて、武器はどうか。偉そうなことを言っていたけれど、手に入ったのか。あるいは、手に入る道筋は立っているのか。手中に収まりつつあるのか。

答えは否だ。ぜんぜんだめ。まるっきりだめ。ちょっと笑ってしまうくらい進歩が見られない、と主観的に思う。大学にはいって確かに環境は変わったけれど、その環境に適合できているともいえないし、かといって適合できていないとも思えない。その箱のなかで、箱の中のルールで、ただひたすら1日をやり過ごしているだけだ。周りと同じ。同じことが悪いとは言わない。ただ周りの皆も1日をただやり過ごしているだけなんだ。そんな中で、どう武器が手に入るのだろう。なにができるのだろう。

僕は湯船に浸かりながら、根本的なことができていなかったように思った。
これまでこんなふうに、自己との対話を怠っていたんじゃないかと思った。というか怠っていた。

失われ続けることは仕方ないけれど、その日々の流れに忙殺されて、考え続けることを辞めるのは最もやってはいけないことだった。モラトリアムの最も悪い使い方、思考停止。思考の断片は結束することなくツイッターのテキストの波に呑まれてタイムラインと共にどこかに消えていっていた。それでは蓄積されない、流されるだけ。そこでは、澱むことはないから一見安心してしまう。けれど僕らは積極的に澱ませ続けなければならない、思考の断片を繋げようと藻掻き続けなければならない。なぜならそれが、なるたけ身に汚れを堆積させないようにする方法だから。社会のなかで声をあげ続ける方法だから。

だから、19歳の目標は、自己との対話をし続けること、としようと思うんだ。あと1年で20歳になってしまう、あるいは「大学生」そのものになってしまうからこそ、「選択」が求められているからこそ、いま思考し続けることが必要とされている。

レールに乗る/乗らない。
その選択をする前に、あるいはすべての物事に対する選択をする前に思考がなければ、きっと僕はいつまでも箱のなかだ。レールに乗ることが悪いことだとは思わない。そのレールを自分の足で歩み進めるのか、それともただ箱に運ばれるのかという違いだ。どの選択をした人間でも、その前に深くまでなされた自己との対話がなければ、きっといつまでも箱に運ばれているということに気付かないで、自分の足で歩いていると錯覚してしまうと思う。それは違う。それは違う。

もっと具体的に言えば、今年の目標のひとつは、風呂に毎晩入ること、だ。気付いたら睡魔に負けて、翌朝シャワーだけ浴びるということばかりだったこの生活を、改めなければならない。

「風呂は命の洗濯よ」と、葛城ミサトは言った。風呂は1日の表皮についた汚れを落とすだけの場所ではない。湯船に浸かりながら、これほど自己対話に適している環境はないなと思った。閉鎖され、静寂に包まれた自分だけの空間。外界と繋がる為の電子機器もそこにはない。あるいは時間を潰す何かがあるわけでもない。そこでは、本当に「自分」しかいないんだ。
よく風呂はアイデアが産まれる場所、だとかいわれる。それも納得できる。エヴァンゲリオンというアニメのなかでも風呂場で葛城ミサトや、碇シンジや、アスカ・ラングレーのきわめて個人的な葛藤が生まれていた描写があった。だからこそ風呂は命の洗濯なのだ。ゆっくりと思考する時間を与えてくれる。

いま続けている日記も毎日書き続けなければならない。しっかりとその日を顧みながら、肉筆で日記を書き続けることの意味がないはずがないんだ。ブログを書くことも思考をし続ける上で大切なことだと思う。ツイッターという言葉の海にたった140字の言葉をただ浮かべるだけではなくて、それを塊として体系的に、より意味を持たせて発信することに意味がある。「見られる」文章と「見られない」文章をいかに使い分けるか。

これから選択を迫られる機会が増えてゆくと思う。可能性なんて、やれることなんていくらでもある。本当にいくらでもある。そのどれを選ぶのか?どうして選ぶのか?どうしてほかではだめなのか?思考と選択。選択肢が多い、いまだからこそ。

僕らに与えられた、残り僅かなモラトリアムは、思考停止する期間じゃない。積極的に考え続けるべき期間だ。ここで考えるのをやめたら、いつまでも考えることができるようにならないまま人生が終わると思う。いつまでも17歳の幻想に取り憑かれたまま消えてゆくと思う。目をそらさないで、自分と対話し続けなければならない。それが唯一の方法なんだ、と、自分に言い聞かせて、風呂場を出た。いつしか叫べるように。


「日記」カテゴリ関連の記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP ↑